Heart Asks …



 やりきれない想いをぶちまけるような激しい旋律。音楽室からこぼれてくるピアノの音は、弾き手の並々ならぬテクニックを思わせるだけでなく、陶酔にも似た色を生み出していた。まるで弾き手の心の中に閉じ込められている感情が捌け口を求めているようにも思われた。美しいのに荒々しく、どこか残酷な。それは彼が持つ特有の個性でもあった。
 ガラリ、音楽室の扉を開いた。ピアノの音が止む。てらてらと輝くグランドピアノを前にしていた弾き手は、入室を耳ざとく聞きとめて、視線を動かした。
「……お前か。何の用だ。」
 弾き手は鼻で嘲笑うような態度で言った。
「何の用とは言ってくれるなぁ。ええ音が聞こえてきたから、誰が弾いとるんやろ〜と思って、入ってきたまでやないか。」
 忍足は、にやっと口端を持ち上げて見せた。本当は、弾き手が誰であるかを彼は知っていた。しかしそれを言ってしまうと、入室してきた理由がなくなってしまうこともまた理解していた。
「お前がそんな現代的な曲を弾くとは思わんかったわ、跡部。」
 忍足はピアノの方まで寄っていくと、高く開かれた大屋根の中を見下ろしながら、ピアノに手をかけた。磨かれたピアノが映し出す忍足の目に、水平にぴんと張られた弦が飛び込んでくる。ぎりぎりに張り詰められている糸は、美しくも脆く見えた。
 忍足の言葉に、跡部はやはり「フン」と言った不遜な返答しかしなかった。再び指を鍵盤に戻す。細長く、しかし男性らしくもある逞しい指が音を奏で始めた。独特の哀愁が漂う音が忍足の耳に心地よく響いた。

 関東大会で後一歩のところで青春学園に負けてしまった氷帝学園は、全国大会への夢を奪われた。彼らの夏は、終わってしまったのだ。
 それぞれに自尊心が強いため、悔しいとか悲しいとか、誰も口にすることはなかった。けれど、自身のテニスに自負を持って戦ってきたからこそ、後一歩のところで負けを喫した彼らの無念も尋常ではなかった。あまり執着心というものを持たずにテニスをやってきたと思っている忍足自身でさえ、改めて「もっと強くなりたい」と感じたくらいなのだ。部長である跡部の心境は、想像に難くない。いつも周囲を囲ませている生徒たちや樺地すらいない、一人きりの跡部は、どことなく寂寞として見えた。

 跡部の紡ぎだす音に、耳を澄ます。もの悲しい中にも激しくほとばしる情熱が満ちているメロディーが、跡部の声のようにも聞こえた。今何を思っているのか、どのような気持ちであるのか、口にして聞かせてくれと言っても、跡部は何も言わないだろう。言いたくないのか、はたまた言葉で表現することができないのか、それは推測の域を出ないが、往々にして、こういう気持ちは言葉には換えられないものだ。言葉は、時に感情を限定し、普遍的な範疇の中に閉じ込めてしまう。刹那的で暴走しそうな思いを伝えるのに、言葉というツールはひどく不完全だ。それに比べると、旋律は感覚的ではあるが、弾き手である跡部と同一化したかのように、オーラの如く跡部を包み込んでいた。言わない、言えない跡部に代わって、流暢に彼の苦悩を忍足へ語りかける。

 指で最後の鍵盤を叩いた後、跡部は静かに鍵盤から指を離した。物足りないように、ピアノをいとおしむように鍵盤から指を離した跡部を、忍足は目を凝らして見つめた。緊張と緩和が紙一重のところで揺れる空気。あの日の跡部がかもし出していた雰囲気に、似ていた。テニスコートを離れたときに跡部が感じたのだろう気持ちが、新たに伝導してくるようであった。
 しんとした静寂が広がった。恍惚とした世界から跡部を無理やり自分の方へ引き戻すように、パン、パン、と忍足は手を打った。けだるげな拍手の音が、静寂を破った。
「見事やなぁ。こうやって跡部が弾くのを、しみじみと聞く日が来ようとは思わんかったわ。」
 狡猾ともいえる笑みを口元に浮かべた忍足に、跡部の鋭い視線が向けられた。
「フン、誰に向かってそんな口をきいてる。」
 普通の人間が言えば、傲慢以外の何物でもない口ぶり。しかし跡部が言うと、拗ねたような、照れ隠しのような可愛げが垣間見える気もして、忍足は嫌いではなかった。
「まー、そんな怒んなや。褒めたったのに。」
「お前の言葉には、いちいち嫌味が混じってるように聞こえるんだよ。」
「やーねぇ、跡部くんったら!ひどいわぁ〜、なーにか誤解してるわぁ〜。」
 忍足はおどけて、両肩をすぼめた。その忍足のふざけた返事に、跡部は一瞬眉をひそめたが、すぐに呆れたように溜息をついた。
「……全く、お前には、あいた口がふさがらねぇな。」
 忍足は、ニヤっと笑った。
「それはそれは。嬉しい褒め言葉やなぁ。」
「…なんだと?」
「だって、跡部が他人に対してそんなことを言うなんて、あんまりないことやろ?」
「………。」
 ああ言えばこう言う。忍足の答えを生意気に感じて、跡部はしかめっ面をすると、椅子から立ち上がった。
「お前には付き合ってられねぇ。」
「そ?」
 尊大な跡部だが、意外と神経質な面を持ち合わせている。それが可笑しくて、忍足は更にくっくっと笑った。
「…何が可笑しい。」
 ほら、すぐ反応する。
 跡部は、他者を見極める能力に秀でている反面、少なからずそれに翻弄されてしまうきらいがあるのだ。先日だって、その長所とそれに対する絶対的な自信が、結局跡部の計算ミスを誘い、手塚に対する敗北感を招いてしまった。
 試合には勝った。それでも跡部は常にそうであったようには、勝利に酔いしれることはできなかった。心の中に残る傷は鈍く、今も跡部を苛んでいる。まだ試合が終わって日が浅いため、忍足はあえてそれを口にしないけれども。
「いーや、別に。」
 だが、忍足の言わんとしたことを鋭く察知したのか、跡部はねめつけるように忍足に見入った。
 男が見ても美しいと思える切れ長の瞳、すべすべとした肌。女であれば勝気で可愛い奴と見えてしまうような独特の艶を跡部は持っていた。忍足は、時々、そんな跡部の艶が揺らぐのを見てみたい嗜虐的な思考に捕らわれるときがあった。相変わらず口角をあげたまま、忍足は言った。
「そーいえばー…」のろのろと続ける。「岳人に聞いたんやけど、立海の部長が本格的に手術するんやってな?」
 忍足にとっては、ちょっぴり跡部を苛めたい気持ちに誘われて行ったにすぎない突然の話題変換であったが、跡部にとってそれはひどく好ましくないものであったらしい。いっそう険しい顔をして、跡部は「…だからどうした」と返した。今の跡部にテニスの話は禁句だ。そして、九州に肘の治療に向かった手塚を彷彿とさせる病院の話題も宜しくない。直接的に言えば、きっと跡部は激怒したはずだった。けれども、忍足の言い方が婉曲的なものであったから、プライドの高い跡部は自分から突っかかることができずにいた。ただむっと顔をしかめて、俯いてしまった跡部の様子を見て、思ったとおり繊細な反応を見せたと、忍足の心は満たされた。
「いーや、ただそれだけ。」
 忍足はおもむろに足を進めた。立ちはだかるようにして跡部の目の前に立つ。忍足は跡部より少しだけ背が高い。絡む視線は、水平線上に真っ直ぐのようでありながら、ほんの少しだけ高低がずれていた。
「なー、跡部。もっかい、今の曲弾いて。」
 猫なで声で忍足は言った。跡部の秀麗な眉が歪む。余裕顔でいる忍足に、跡部はいささかカチンときていた。跡部には忍足が何のつもりでそのように言っているのかが知れていた。

『忍足の奴、楽しんでやがる』。

 いつもは強くて華やかで、誰に対しても引け目を取らない跡部だが、今日はいつもどおり振舞うことができずにいた。一人で弾き始めたピアノに、思わず昂揚してしまった跡部は、高ぶる感情を抑えきれず、演奏に感情移入してしまっていた。忍足はそのピアノの音を聞き、直感的に跡部が抱いている負の感情に勘付いたに違いない。聴力に優れ、洞察眼のある彼であれば、容易になしえることだ。忍足が入室してきた時点で、演奏をやめればよかったと今更思ったところで、後の祭りである。
 手塚との試合。それは自身にとって力を出し切った悔いのないものであったが、あのとき、どこかで跡部は自分の弱さを見た気がした。
 他人の弱点を見切ることは、確かに強みであるだろう。けれどもその弱点を跳ね除けるほどの情熱を手塚は持っていた。跡部は手塚の情熱を見くびっていた。見たままの現実を優先させるがために、そんな情熱は陳腐なものと蔑ろにしていた部分は否めない。そしてあの日、自分の最も強みだと思っていたものが、実は何も真実を見ていなかったことを跡部は知った。
 忍足はそんな跡部の抱いた心情の経緯を、いまや得心している。跡部には、跡部の弱みを握ったと、忍足が勝ち誇っているように見えた。忍足とて敗北を喫して口惜しいという感情を抱いただろうに、性格ゆえなのか、彼の方は相も変わらず淡々としている。それゆえ、跡部には忍足が余計に偉ぶっているように感じられた。
 跡部は訝しげに忍足を見返したが、何故かその場を立ち去ることが出来なかった。忍足の目に、忍足の耳に、雁字搦めにされてしまったような感覚だった。否定することの出来ない強制力を覚え、跡部には鬱陶しそうに息をつくしかできなかった。もう一度椅子に座って、嫌々ながらも鍵盤に指を乗せた。
 跡部が自分の要求に応じたことに、「おおきに」と忍足は嬉しそうに微笑んだ。誰に対しても強くあるはずの跡部が、今の自分の要求に対してだけは従順だ。そこには跡部という人物を囲い込んだような快感があった。

 跡部が再び音を奏で始めた。跡部が持て余している念を人質に取るようにして、忍足が得るもの。一旦跡部の弱みを知ってしまえば、彼が回復するまでの期間に限定されるであろうが、そこを徹底的に突くことによって、忍足はどんなものも得られるだろう。たとえば、忍足に言われたように再度鍵盤を叩き始めたその指を、忍足のものとしてしまうことも可能なのかもしれない。よからぬことを強いて、跡部をずたずたにすることも、もしかしたら。
 忍足はそっと跡部の頭部に手を伸ばした。くしゃりと髪を掴む。ほんの少し引っ張っただけでも、跡部の頭が忍足の方へ振れ動く。ぴくりと跡部の身体がわなないた。ピアノの音が一瞬、途切れた。
「続けて」命令口調で忍足は言った。「ホントにええ曲よなぁ…、それ。俺、すごいそれ好きなんよ。」
 また紡ぎだされた音を楽しみながら、忍足の手はゆるやかに動いていった。今しがた引っ張った跡部の頭部を宥めるかのように。忍足は、指で丁寧になぞるようにして跡部に触れていった。こめかみ、耳、頬、首筋…、跡部の邪魔をしない程度に、忍足は局地的な接触を進めた。跡部の身体はすっかり強張っていた。先ほどは激情的に奏でていた旋律も、どことなく困惑が滲んでいるように聞こえた。こんな、誰も見たことのないであろう跡部。人知れず傷心の中にあるのだと思われる彼を、己の手で弄ぶ感触。ぞくぞくした。跡部の弾くピアノの音を聞くだけで、言葉では表現しきれない彼の生のこころが伝わってくるようで、忍足は体中が総毛立つ気がした。

 忍足が嫌がる跡部を強引に組み敷いたのは、その二度目のピアノ演奏が終わった直後のことであった。鍵盤の上で淫らに足を開かせ、忍足は跡部の体に、その心に相応しい傷を与えた。強く、完璧である人物が垣間見せた繊細な側面が、忍足の扇情に火を点けたのだ。
 跡部は最初こそ怯んだけれども、忍足を拒むことはなかった。ただ、きつく結ばれた唇は、悦楽の叫びをあげることもなければ、未知の部分に切り込まれた痛みを訴えることもなかった。








あとがき:
200000記念企画のリクに愛音さまからいただいたテニプリの忍足×跡部です。心理的に跡部を追い詰める…みたいなのは忍足だけができそうな特権と申しますか。結局最後は美味しくいただいちゃったようですが、Sな忍足が書けてとっても楽しかったです〜。愛音さん素敵なリク、有難う御座いました!