Love Ballade
設楽聖司×

 設楽がパリへ留学してから二年が過ぎようとしている。
 夏休みは一年の間で唯一長く日本にいられる期間である。休みに入って間もなく設楽は帰国した。
 もとは日本人であるとはいえ、今や日常生活の基盤がフランスに移ってしまっているので、最初の内はフランスにいる感覚が抜けきらなかった。だが、二日、三日と過ごすうちに、徐々に日本の雰囲気を思い出し、一週間経過した頃にはすっかり留学前の感覚に戻っていた。
 その日、設楽は、高校時代の友人の紺野と会う約束をしていた。「折角だからおまえも来い」と恋人を誘ったのだが、「折角だから二人でお話してきたらいいじゃないですか」と笑顔で返された。
 紺野は、設楽が腹を割って話すことのできる数少ない友人だ。日本とフランスで距離は離れているが、インターネットのメールなどで時々やり取りを交わすくらいにはまだ付き合いがある。
 二人は臨海公園エリアで待ち合わせた。設楽家が懇意にしている一流ホテルが臨海公園の区域内にあるのだが、その中に入っている喫茶店は、雰囲気が洗練されていて、紅茶がとても美味しかった。設楽は紺野をそこに誘った。
 店内に通され、注文を受けた後、おもむろに口を開いたのは紺野の方だった。紺野は、設楽の顔をまじまじと見ながら、少女のような微笑を零した。
「まだ平和なようだな」
「何がだ」
「設楽と彼女だよ。帰国してからずっと彼女の部屋にいるんだろう」
 う、と設楽は押し黙った。言い当てられたのが癪だったが、それは事実であった。
 彼女は昨年から、自立のためだと言って、アルバイトで貯めたお金を元手に一人暮らしをしている。
 設楽が帰国した際はその部屋に立ち寄るのが常となっていた。たまには家で一緒に食事を取っていきなさいと設楽の母親が呆れるほど、設楽は彼女の住まいに「居ついて」いた。
「そんなことはない。ちゃんと家にも帰ってるさ」
「荷物を取りに行ったり、指を動かしに離れのピアノルームへ戻ったりする程度だろ。分かりやすいなぁ、設楽は」
「あぁ、もう、うるさい。何が悪いんだ。自分の女の部屋にいることの何が」
「悪いだなんて言ってないだろ。ただ遠距離恋愛をしている場合、近くに戻ってくると、色々と戸惑うこともあるんじゃないかと思ってね。心配してたんだ。生活のリズムが違うんだから、二人の呼吸が合わないことだってある。でも、その様子だとまだ彼女と喧嘩していないようだから、意外だと思っただけだ」
「意外ってなんだ」
「そんなに食って掛かるな。褒めてる」
「そんなの褒め言葉になるか」
 設楽は唸った。
 しかし紺野の言葉の端々に、彼がそれなりに設楽と彼女を案じてくれていたらしいことは分かったから、それ以上には文句を言わなかった。
 だが紺野の方はまだ足りないと言わんばかりに更に話を続けた。
「何か秘訣でもあるのか?」
「秘訣?」
「そう、秘訣。設楽たちの遠距離恋愛がうまくいっている理由」
「そんなものない」
「だけど、パリのような大都会にもなると、綺麗な女性が多いだろ?彼女だってそうだ。あんなに可愛い子が一流大学にもいるのかって、僕の周りでも彼女のファンは多いよ。でも、二人揃って他の誰かに心移りする気配はない。この二年間、会えない期間の方が長かったはずなのに、だ」
 紺野は興味深そうに設楽を見やった。金持ち気質というのか、はばたき学園でもどちらかといえば傲慢な態度が目立っていた設楽だったが、彼女と出会ってからは随分と柔らかくなった。
 設楽が彼女に夢中なのは一目瞭然であったが、それにしてもよく続いている、というのが紺野の素直な意見であった。
「秘訣……」
 設楽はしぶしぶながら考え込んだ。しかし、やはりこれといったものは思いつかなかった。
 メールのやり取り、電話。日本とフランスは、移動しようと思うと、半日以上かけて空を旅せねばならない距離だ。確かに遠い。「ピアノ」という没頭できるものがなければ、彼女が恋しくて仕方なかったかもしれない。いや、彼女と出会って再び「ピアノ」に真正面から向き合おうと思ったのだから、ピアノを奏でていること自体が彼女への思いの表現だと考えれば、いかに日本とフランスが遠く離れていようとも、距離は関係ない。少なくとも設楽にしてみれば。
 だが、彼女の方はどうなのだろうか、とふと設楽は考えた。
 恋人であることを贔屓目に見ても、彼女はかなり可愛いと思う。元来の愛くるしい雰囲気に加えて、以前よりぐっと艶を増した色気は最早反則に近い。美人は三日で飽きると言うが、本当に美しい人は飽きるどころかのめり込んでいく一方だから性質が悪い。
 彼女は他の男性に心を奪われることはないのだろうか。確かに彼女は天然記念物並に鈍いが、隙あらば彼女の心を引こうとする男たちがいてもおかしくはない。
「そんなもの、知らない」
 設楽は尚もぶっきらぼうに答えた。
「俺が他の女に目移りする理由はない。俺からあいつに告白したんだからな。あいつがどうなのかはあいつ本人に聞けばいいだろう」
 紺野は目を瞠ったが、設楽の愛嬌がない物言いの中に確実にノロケが含まれているのを感じ取って、ぎこちなく苦笑いした。彼女もきっと同じように答えるに違いない。そんな気がした。

 紺野と別れ、設楽が彼女の部屋に戻ったところ、部屋には誰もいなかった。
 帰り際、彼女に電話を掛けたら、「夕飯の買い物に出かけている」と言っていた。まだ帰っていないのかと、設楽は渡されていた合鍵で彼女の部屋の中に入った。
 彼女の部屋はこじんまりとしているが、シンプルで品の良い調度品が揃っていた。勿論設楽が知るような高級なそれではないが、北欧製の美しい家具が、部屋のサイズに合わせてバランスよく配置されている。
 設楽は彼女の部屋をぐるりと見回してから、彼女が設楽のために用意した小さな一人用のソファに腰掛けた。
 彼女と色違いのそれは、リクライニングの機能的なソファで、座り心地も思ったより良い。
 坊っちゃまが床に座り込むなんて、と設楽の屋敷の使用人が聞いたら驚くだろう。ただ一人、妙に庶民慣れしていて、桜井兄弟の母親とママさん友達である設楽の母親だけは、そんな設楽の姿を見ても何ら気にかけないだろうが。
 二人が暮らすには、彼女の部屋は狭すぎる。けれども彼女の空間に、自分が入ることができるということが大切だった。彼女の部屋は、彼女のこころそのもの。自分がそこに滞在するのを喜んでもらえるのが、設楽は嬉しかった。
「退屈だ」
 設楽は可愛げなく呟いたが、その表情は柔らかかった。
「さすがにここにピアノを持ち込ませろ―と言ったら、怒るだろうな」
 いっそ、二人の部屋を用意しようか、という気になってくる。設楽の帰る場所。彼女が設楽を出迎えてくれる場所。彼女の居場所が自分の居場所と同じであれば良いのに、と考えるのは、男の我儘だろうか。
 だが設楽ももう子供ではない。設楽の家は裕福だが、それは設楽が自分自身で手に入れたものでないことくらい分かっている。彼女の部屋に上がりこむことは気にならないが、家の財を使って彼女に家を持たせるというのは、設楽のプライドが許さなかった。
 設楽は立ち上がり、オーディオプレイヤーの方へ歩んだ。オーディオプレイヤーの横に設えてあるラックには、設楽が贈ったクラシックやジャズといったCDの他に、彼女が自分で選んだのだろうCDが作曲家別に分類されていた。
 クラシックのCDは圧倒的にベートーベンのものが多かった。解釈が異なる数名のピアニストのCDが並んでいる。最初にこのCDの並びを見たときは、よくここまで勉強したものだと驚いた。
 そしてクラシックやジャズのCDの中に、数枚、毛色の異なるジャンルのCDが紛れていた。
 それは、はばたき市出身のインディーズのロックバンドのものだ。設楽はラックからそのバンドのCDを一枚取り出した。
 ジャケットにはバンドメンバーの写真がプリントされている。設楽は、中心でカメラから目を逸らし、アンニュイな顔をしている男性を見た。
 設楽はその人物を知っていた。彼は、多趣味な設楽の母親が通っていた日本舞踊の家元の孫に当たる。幼少期に、二、三回話したことがあると記憶している。設楽より二つほど年上であるが、それを感じさせない無邪気な子供であった。
 彼女は、そのバンドのファンなのだと言っていた。メロディーと詞が特にお気に入りらしい。設楽は、好んでロックのCDを聞くことはないが、彼女と連れ立ってライブハウスに出かけることはたびたびあった。
 実際に、ライブハウスで聞くロックは悪くない。ステージと観客席が近いから、ステージの熱気がダイレクトに伝わってくるのがいい。CDだと、小奇麗に纏まりすぎるような気がする。
 まぁいいけどな、設楽は独り言を呟きながら、CDをオーディオプレイヤーにセットした。
 しっとりとした曲調に伸びやかな男性の歌声が重なる。まさか声楽の基礎を学んだわけではないだろうが、良い歌声であった。切ないメロディーラインに映える歌詞が、ボーカリストの声に乗って、設楽の耳に飛び込んでくる。
 だがワンフレーズ聴いたところで、設楽は目を丸く見開いた。
 歌詞は遠距離恋愛の果てを綴ったものらしく、男性が自分から離れていった女性を思う情熱的なものであった。
 ひとつひとつの言葉にずしんと胸に落ちてくるような重みがあって、歌っている本人がそのような恋愛をしたことがあるのかと穿ちたくなる程に、胸を引き絞られた。
 先ほどまで会っていた紺野の言葉が脳裏によみがえる。
『何か秘訣でもあるのか?設楽たちの遠距離恋愛がうまくいっている理由』。
 紺野に答えたとおり、設楽はただ彼女のことが好きなだけで、それ以外に彼の恋愛が成立している理由はない。
 しかし、ファンであるバンドの歌であるとはいえ、彼女がこれを好んで聞く、ということが、何となく彼女の心を透かしているような気がしないでもない。
 彼女にだって、設楽に遠慮し、口に出すことのない想いもあるだろう。
 設楽がどれほどパリに来いと言ったところで、幼少時からヨーロッパに馴染みの深かった設楽とは異なり、彼女にはフランスは遠く感じられるに違いない。
 設楽がどれほど愛していると囁いたところで、一年の大半を離れて過ごすことに寂しさを感じていないはずがないのだ。
 だが本場で修練することなく日本でのピアノ演奏に甘んじるだなんて、設楽にはできない。そうかといって彼女を手放すこともできない。
「俺にはピアノしかない」と言っておきながら、一人の女性の人生を束縛しているのは重々承知しているが、だからと言って「日本に凱旋するまで距離を置こう」などとは言い出せない。
 好きだから、ずるくなる。彼女は設楽にとって、空気であり、水であり、血である。ピアノを弾く設楽の支えになっているのが彼女の存在であるなら、ピアノと向き合う生の中で設楽の思いが行き着くのも彼女だ。言ってみれば、設楽の始まりと終わりは彼女によって紡がれている。
 彼女が設楽との遠距離恋愛で何を思っているのか―それは開けてはならないパンドラの壷であるように思われた。

 家元の孫が奏でる哀しい楽曲を聴き終えた数秒後に、部屋の扉が開いた。
「ただいま戻りました〜」
 快活な声と、続いて荷物を持って部屋の中へ入ってくる足音が聞こえた。
「先輩〜?」
 設楽の返答がなかったので、彼女は設楽の名を呼んだ。キッチンのすぐ目の前にあるカウンターテーブルによいしょと荷物を置いて、彼女は室内にいた設楽を見止めた。
「もう!戻ってるなら、返事してくださいよ。まだ帰ってないのかと思ったじゃないですか」
 彼女の笑顔はキラキラしていた。日が落ちてゆくのに合わせて薄暗くなり始めた部屋の中でも、十分に眩しく見えた。
「今日は茄子が美味しそうだったから、麻婆茄子にしようと思うんです。先輩、気に入ると思って。あ、あと、アイスクリームも買ってきましたよ?先輩が細かいから、ちゃんとハーゲンダッツにしました」
 彼女は楽しそうに喋っていたが、ふと違和感に気づいたようで、設楽の方を振り返った。
「先輩?どうしました?」
 彼女はひょこっと首を傾げた。が、すぐに設楽が持っているCDケースに気づいて、「あぁ」と頬をほころばせた。
「CD聴いてたんですか?レックロ、すごくいいんですよ。歌詞に波があるのが玉に瑕ですけど。無性に聴きたくなるときがあるんですよね」
 暢気にうふふと笑う彼女が、どうしようもなく愛しかった。
 本当は寂しさを押し殺しているのでも、設楽同様自分の想いに自信があって関係を続けているのでも、どちらでもいい。
 もう嫌だと癇癪を起こしたくなったら、そうすればいい。平常心で受け止めることは難しいかもしれないが、彼女を幸せにしてやりたいと思う気持ちに偽りはない。
 設楽は、CDケースをオーディオプレイヤーの上に置いた。彼女はバンドの歌を口ずさみながら、食材の分類を始めている。設楽は彼女に歩み寄り、彼女を背後から抱きしめた。
 彼女の鼻歌が止まった。一呼吸置いて、彼女は消え入りそうな声で「先輩?」と言った。
「どうしたんですか?」
 彼女をかき抱く設楽の腕に、彼女がそっと手を添える。優しいタッチだった。
「……別に。ただ半日離れていたから、おまえが寂しかっただろうと思っただけだ」
「お気遣い有難うございます」
 彼女はプッと噴き出した。こういう風に設楽が憎まれ口を叩くときは、大体構ってほしいときだと心得ている彼女は、体勢はそのままにてきぱきと食材の分類を続けた。
「今日の食後はアフォガートにしましょうか。コーヒー?紅茶?どっちにしましょう?」
「……コーヒーリキュールがいい」
「えっ?コーヒーリキュール?わたしの家にはありませんよ?」
「だろうな。分かってる。言ってみただけだ」
 もう!
 彼女は声を立てて笑った。
 体をくっつけて聞く彼女の笑い声はいつもより温かく、深いところで二人が繋がっているような感覚をくれた。

ミコさんへ
 (2010/8/29 Asa)