Triangle-Lined
佐伯→主←赤城

 1時限目が終わって2時限目が始まるまで15分。
 この間に、法学部棟から言語文化棟へ移動するためには、かなり早足で歩かねばならない。
 一流大学は、一年生から二年生の前期までは全学部共通で教養科目を履修することになっている。
 そのため、一時限ごとに建物の間を渡り歩くということは珍しくも何ともないのだが、文科系のキャンパスの中で法学部棟と言語文化棟は丁度両端にあるため、キャンパス内を思い切り横切らなければ移動できないのであった。
 その日の2時限目は第二外国語の講義であった。
 学生は、各々入学時に第二外国語を選択し、その語学の基礎を一年半かけて学ぶ。
 赤城は第二外国語としてドイツ語を選択していた。赤城が専攻しようとしている学科は、ドイツの法体系をベースとしているので、第二外国語の選択に迷いはなかった。
 法学部を志す文科一類に所属している学生は、赤城と同じ理由でドイツ語か、あるいは同じ理由でフランス語を履修する者が多い。
 語学を始めとする教養科目は、他の文科系の学生と共通で受講するため、クラスには様々な学部の学生がいるが、他の学部においても大体事情は同じようで、学生たちは専攻する学科に応じて第二外国語を選ぶ。
 そのため、東洋系の分野でない限り、研究論文や参考文献が英語に次いで多いドイツ語とフランス語のクラスは、他の語学のクラスよりも受講者が多く、クラス自体も四つに分かれていた。

 赤城が教室に入ると、既に学生たちの多くが着席していた。
 文学部棟や教育学部棟は比較的言語文化棟に近い場所に建物があるので、それらの学部を志している文科三類の学生は、もう殆どがテキストを開いていた。
 席は決まっているわけではないけれど、一クラスが20人程度であるからか、毎回ほぼ全員が同じ席につく。
 赤城がいつも座っている席も勿論、ちゃんと空いていた。赤城は一直線にその席へと向かい、席を一つ空けた隣に座っていた学生に声をかけた。
「おはよう」
 赤城に声を掛けられて、開いたテキストを目で追っていた学生が顔を上げた。
 彼女は文科三類の学生だ。赤城とは別の高校に通っていたが、二人は高校時代からの顔見知りであった。
 といっても顔を合わせたことがある程度で、さほど親しい関係であったわけではない。雨宿りをしていたところにたまたま遭遇し、以後は時々はばたき市内で顔を合わせては軽口を叩き合う、その程度のものだ。
 しかも、一流大学に入学し、このドイツ語のクラスに割り振られるまで、赤城は彼女の名前も彼女の進路も知らなかった。
 赤城の方は密かに彼女を気にかけていたものの、自覚しているようで自覚していなかった曖昧な淡い思いなどそんなものだろう。
 だが、高校時代ははっきりとした形を成していなかった淡い思いも、今では鮮やかな恋心を描いている。
 彼女の表情や彼女の声、彼女の仕草、佇まい、全てが赤城の目に留った。自分は彼女のことが好きなんだ、そう認識できるには十分なくらい、いつのまにか赤城は知らず知らず彼女を追うようになった。
 学部は違えども、彼女と同じクラスで講義を受けられるのが嬉しくて、他愛もないドイツ語の講義が楽しくて。自分で言うのもおこがましいが、ドイツ語の学習状況は他の講義に比べようもないくらい良い。
「おはよう、赤城くん」
 彼女がにっこりと微笑んだ。文化一類生ならではの憂鬱を得心している彼女は、眉を八の字にして小首を傾げた。
「今日も大変だったね?」
「まぁね。学部棟から遠いのはどうにもならないから、もう諦めてるけど」
 赤城は肩をすくめた。それから、彼女の更に向こう側、こちらも同じく席を一つ分空けた隣に座っていた学生にも声をかけた。
「君は早く着いたんだね、佐伯くん。相変わらず迅速で羨ましいよ。脚の長さの違いかな」
 そのように声をかけると、彼女の向こう隣に座っていた男子学生も不機嫌そうに顔を上げた。
 この男子学生は佐伯と言って、文科二類の学生である。
 文科二類の学生が進学を志す経済学部棟は法学部棟に隣接しているので、一類の学生程ではないが、二類の学生も言語文化棟にやってくるのには時間がかかる。
 だが、佐伯は毎回必ず赤城よりも先に着席していた。
 そうして、度々、一つ席を空けた隣に座っている彼女と話している。とても楽しそうに。
 赤城が佐伯と挨拶を交わすようになったのも、ひとえに、彼女と佐伯が親しげに話している中に入る機会が多かったからに他ならない。
 恐らく彼もまた彼女に思いを寄せているのであろう、佐伯は、赤城のことをあまりよく思っていないようであった。赤城が声をかける都度、苦々しい表情を隠すことなく、「どうも」とつっけんどんに返答する。
 そんな佐伯を見て、彼女が「本当に珍しいよね。瑛くんが素を出すなんて」と真顔で驚き、脳天に佐伯からのチョップを食らう―、それが日常の風景であった。

 こういうのを、三角関係というのだろうか。
 赤城は彼女を好きで、佐伯もきっと彼女を好きで。けれども、彼女本人は赤城とも佐伯とも仲が良い。
 赤城は一度「君たちは付き合っているの?」と二人の前で訊いたことがあるが、そのときの返答がともに「とんでもない!」というものだったので、彼女と佐伯は近しいけれども男女の関係ではないらしかった。
 それはつまり、まだ赤城にもチャンスはあるということだ。
 教室では、体格の良いドイツ人の男性講師が、ちぐはぐな日本語と流暢なドイツ語を組み合わせた変梃りんな講義を展開し始めた。
 日本語を聞き取ろうとしても簡単には理解できないことを、学生たちは既に心得ているので、ドイツ語の方に集中して耳を傾ける。第二外国語の基本は文法を学ぶことであるが、講師がネイティブであると意外とリスニングの力もつくものだ。
 他の学生同様、赤城も講師の話すドイツ語を聞いてペンを走らせた。最初は何を言っているのかさっぱり分からなかったが、今では随分聞き取れるようになった方だ。
 ちらりと横に視線を向けると、彼女も熱心にメモを取っていた。
 講師の話に従って、彼女の表情はころころと変わった。疑問も驚嘆も笑いも、素直に顔に出てしまうところが可愛い。赤城の表情は自然と綻んだ。
 高校の時に比べれば大学の講義の一コマの時間はかなり延びたけれど、またドイツ語の講義は時として非常に眠くなるけれど。ちっとも辛いと思わないのは、この空気感ゆえなのであろう。

 二次限目の終わりを知らせるチャイムが鳴り響くと同時に、ドイツ語講師は講義を終えた。
 チャイムなどおかまいなしに長々と喋りたがる日本の教授陣に比べると、欧米出身の講師はさっさと講義を切り上げてくれるから有難い。
 赤城は手早く筆記用具を鞄の中に片付けて、彼女の方へ歩み寄った。
「今日、お昼、学食?よかったら一緒にどう?」
 赤城の誘いに、彼女は「あ、うん、そうだね」と頷いた。
 キッと鋭い視線が彼女の向こう側から飛んでくる。大好きなご主人様の側に近寄ろうとする人間を片っ端から威嚇する犬のような眼差しだ。
 その気持ちは分からないでもない。赤城は優雅に微笑んで、「佐伯くんも、是非」と声を掛けた。
「そうしようよ、瑛くん」
 彼女はテキストとノートを机の上でとんと揃えて、「ねっ」と佐伯に声を掛けた。
 佐伯は、今度は彼女の方に恨めしそうな視線を投げかけた。何か言いたげな顔つきから察するに、もしかしたら、あらかじめ彼女とランチの約束をしていたのかもしれない。
 そうであるなら、そこに赤城が加わるとなれば、当然不愉快な思いをしているだろう。また、自分という存在はそれだけ彼女に重要視されていないのではないかと、気持ちも落ち込んでいるに違いない。
 だが、佐伯の気持ちを察することはできても、赤城だって佐伯に譲ることはできない。
 高校生活の三年間を含め、もう三年以上も彼女の側にいながら、佐伯が彼女の心を掴みきれないのなら、赤城が彼女を攫っていっても問題ないはずだ。欲しいものは、できうる限りの努力を積み重ねて、手に入れる。そうあるべきだと思うし、そうありたいと思う。
「行こうか」
 思わず佐伯が怯んでしまうくらいにこやかに、赤城は二人に微笑みかけた。

くるのきさんへ
 (2010/9/17 Asa)