しあわせの在り処
設楽×主人公←桜井兄弟

「幸せ」って一体なんだろう?
 幸福と幸運じゃ随分意味が異なる。また、「幸せになりたい」のか「幸せが欲しい」のか―目の前にあるものを追うのか、あるいは上から落ちてくるのを待つのかでも違ってくるだろう。
 そして何より、何に幸せの価値を求めるのかで、気持ちが変わる。
「幸せになっていいんだよ」と琉夏に笑いかけてくれた人は、琉夏の幸福を肯定し、それを強く望んでくれたが、琉夏と一緒に幸せを紡ぎあげる未来を選びはしなかった。
 幸せになっていい、と言ってくれるのなら、幸せを司る彼女そのものが琉夏の傍らにいてくれればよかったのに。
 琉夏を肯定してくれるのなら、琉夏を包み込み、そのまま琉夏と溶け合ってくれればよかったのに。
 無念?不満?高校を卒業してもう三年も経つというのに、彼女への恋慕は拭いきれないままだ。いつしかその思いは大きなしこりとなり、琉夏の胸のあたりを絶えず塞ぐようになった。
 琉夏と琥一宛に送られてきた華やかなカードを、いまだに琉夏は直視することができないでいる。
 北半球の空を飛んで、パリから日本に送られてきたそれは、今日から一週間後に控えた聖司と彼女の結婚式の招待状であった。

 その日、琉夏は琥一に呼ばれて、久しぶりに「桜井家」に出向いた。
 用件は分かっている。三日後にフランスへ発つ、その最終準備のためだ。
 琉夏、琥一の兄弟のみならず、桜井家の父母も招待を受けている。もっとも、琉夏と琥一の二人は彼女から、桜井家の父母は聖司からと送り主は異なるわけであるが。
 バイトのシフトを入れたから行かない。講義を休みたくないから行かない。合コンに誘われてるから行かない。外国の硬水を飲んだらお腹を壊すから行かない。
 あらゆる理由をこじつけて琉夏は渡仏を拒んだが、琥一は許さなかった。招待状をもらった日から、琥一は幾度もしつこく琉夏に電話を掛けてきた。多いときで一日に三十回ほど。どこの新婚夫婦だ。琥一の過保護にはある程度慣れているつもりであった琉夏も、さすがにノイローゼになるかと思った。
 そして案の定、玄関の扉を開けるや否や、琉夏は琥一の拳骨をくらった。重々しく、それでいて爽快な拳の音が、桜井家の玄関に響き渡った。
「ってぇ!何すんだ、コウ!」
「当たり前だ。何度も帰ってこいっつったのに、ちっとも来やしねえで」
「忙しかったんだから、しょうがないだろ!酷いよ!お兄ちゃん!」
「キモチ悪ぃんだよ!その呼び方、やめろ!」
 琥一は琉夏の頭に更にもう一つ大きな拳骨を落とした。今度はドリルの要領で、ぐりぐりとつむじを押さえつける。
「ってぇよ!」
「うるせ!」
 子供の喧嘩のような二人のやり取りを耳に止めたのだろう。奥から、スリッパの音をパタパタと立てて、琥一の母親が現れた。
 琥一の母親は、各段小さいというわけでもないのだが、琥一と比べれば、やはり体半分くらいしかない。
「おかえりなさい」
 琥一の背後から琉夏を覗き込むようにして、母親がはにかんだ。
 この母親にはにかまれるのが、琉夏は苦手だった。人の良い、心からの慈愛が込められているのが分かるから、どうしても気後れしてしまうのだ。
「うん」
 琉夏は機械のように頷き、ぎこちなく母親に微笑みかけた。「……ただいま」

 二階の琥一の部屋に上がると、大きなスーツケースが二つ並んでいた。
「オマエの分も用意しておいたからよ」
 スーツケースの色はそれぞれ黒とシルバーであった。開いている窓から熱気のこもった風が室内へと流れ込む。シルバーの方のスーツケースが、風に踊ったレースカーテンの隙間から差し込む陽光を受け、白く輝いた。
 黒と白、二つ並ぶと、まるでピアノの鍵盤のようだ。琉夏は咄嗟に嫌悪感を抱いた。スーツケースからふいと目を逸らし、乱暴に音を立てて、琥一のベッドに腰を下ろした。
 琥一には琉夏の心情を汲むだけの気配りがあった。琥一は大股で窓の方へ歩み寄ると、開いていた窓を閉じた。何が鳴いていたわけでもないのに、外の音を遮断すると、途端に静寂が広がった。琥一は壁に打ち付けてあるリモコンケースからリモコンを取り出して、冷房の電源を入れた。
 それから漸く、琥一は琉夏を振り返った。
「オイ、パスポートは持ってんな?」
「……本当に行くの?」
 琉夏はうんざりした面持ちで、琥一を見返した。そして首を左右に振った。「俺、行きたくない」
 琥一は眉をひそめた。
「子供みたいなこと言ってんじゃねぇ。一家全員で呼ばれてんだ。オマエだけ行きませんなんてわけにはいかねぇだろうがよ」
「家同士のお付き合いについては、俺、よく分かんないんだけどさ。逆に、家と家の問題だったら、俺一人くらいいなくても別によくない?」
 琥一が「一家全員」を持ち出してきたから、琉夏も家の問題に絡めて突き返した。
 いずれにせよ、行きたくなんてない。彼女が他の男と結婚するのを祝いに行くだなんて。どんな顔をして、彼女を祝福すればいいというのだろう?
 沈黙が兄弟の間にのしかかり、数秒経過した。琥一は顔をしかめたまま、唸るように言った。
「……オマエ、それ、本気で言ってんのか」
 どでかいドーベルマンに睨まれたら、こんな感じなんだろう。今にも飛び掛かりそうなのに、理性的で賢明であるがゆえに相手の出方をぎりぎりまでうかがう。警戒心の強い、賢い番犬。
「本気だよ」、琉夏は目を伏せた。
「行きたくないんだ。アイツの幸せ、今の俺には祝えない」
 琥一のパンチが飛んでくることを予測し、琉夏はそっと目を閉じた。
 こういうときの琥一は容赦ない。ボコボコに殴られるだろうな、と思った。
 殴られること自体は構わない。だが、琥一に殴られた後、おろおろと琉夏を気遣う母親の顔が思い浮かんで、それは琉夏の心を苛んだ。
 琉夏が気にかけないことに対して、いちいち腫れものに触るかのように反応されたら、自分が可哀相な子なんだと分かってしまう。
 だからこの家には帰って来たくないんだ。思いやりも優しさも、筒抜けになっていたら、感情的に重荷しか与えない。何かを持っている人は、何も持っていない人の気持ちなんて分からない。何も持っていない人は、自由であることの代償に、多くの憐れみの目にさらされながら生きている。
 自分だって、結局は他人を攻撃することでしか自分を守れていないのだけれど。もやもやした思いを何回も自分で混ぜっ返して、琉夏は琥一の拳を待った。

 しかしながら、琉夏の予想に反して、いつまで経っても琥一は殴りかかってこなかった。
(あれ?)
 怪訝に思い、琉夏はそろそろと目を開いてみた。
 琥一は琉夏に目を怒らせるどころか、窓の側にあった椅子の背もたれにふんぞり返るように座り、どこか遠いところを見るような目つきでぼんやりとしていた。
「……コウ?どうした?」
 琉夏が声をかけると、琥一は静かに答えた。「オマエの気持ちも分からねぇでもねぇ」
「家同士のしがらみだけなら、俺だって理由をつけて断るところだ。けど、今回のはそういうんじゃねぇだろ。オマエはそれでいいのか」
 琥一の口ぶりは、波の立たない水面を撫でるような優しいものであった。
 この不器用な兄も、高校在学中は、琉夏と同様、ひそかに彼女に思いを寄せていた。そして恐らくは、今もまだ彼女に閉じた思いを捧げているのだろう。
 そう思うと、胸が苦しくなった。どうして彼女は一人しかいないんだろう?琉夏が恋焦がれる彼女、琥一が思いを寄せる彼女、聖司がその愛を射止めた彼女。同じ人を好きになって、その内、選ばれたのは聖司だけ。不公平だなんて言うつもりはないけれど、彼女の幸せを得る権利が琉夏と琥一には許されなかった。
 琉夏はおずおずと顔を上げ、囁くように琥一に問いかけた。
「……コウは?コウはいいの?」
「俺か?……そうだな、いいかって聞かれりゃ、あんましよくはねぇな」
「だったら」
「けどよ」
 話を急く琉夏を、琥一は右手で遮った。
「けど、祝ってやりてぇとは思う。アイツのため、っていうよりも、むしろ聖司のために」
「そっち!?」
 思わず琉夏は突っ込んだ。「なんでセイちゃん?」
「そりゃあ、そうだろうがよ。よく考えてみろ。ピアノは弾けるが常識はない、金はあるが弱っちい、キレイな顔をしてるが人様とコミュニケーションを取るなんざできやしねぇ。泣いて逃げ回るしか能のない聖司をもらってくれるのは、物好きなアイツくらいだろうが」
 聖司を褒めているのかけなしているのか分からない琥一の発言に、琉夏は唖然とした。
「コウ……。一応言っておくけど、結構酷いこと言ってるよ」
 同時に、琉夏の胸に笑いがこみ上げてくる。琥一の言ったことを反芻して聖司を思い出した。琥一いわく「どうしようもない」幼馴染は、それでも一生懸命彼女を愛しているに違いない。そんな聖司のありのままの姿に彼女は胸を打たれたのだろう。
「そう考えると、少しは気も楽かも。……それでも俺は行きたくないけどね。俺はコウみたいに大人にはなりきれないよ」
 琥一は、はぁとため息をついて、右手で自らの髪をくしゃくしゃと掻いた。
「わーったよ。そんなに言うんなら、オマエは日本に残ってろ。アイツにはうまいこと言っておいてやる。……がっかりするだろうけどな」
「うん。……サンキュ」
「但し」、琥一がニヤリと笑った。切れ長の細い目に悪戯心満載の輝きが灯るのを、琉夏は確かに見止めた。
「俺がかっさらっていった後、地団駄踏んでも、知らねぇからな?」
 ブラックレンジャーの強かな笑みが、琉夏の背筋を粟立たせた。琉夏は眉を曇らせ、琥一をねめつけた。
「コウ……、何する気?」
 琥一は長い脚を組み、クク、と笑いをかみ殺した。
「別に?相手が聖司なら、もう一騒動くらいあってもいいだろ」
 琉夏は琥一の考えを掴みあぐねた。本当に、何かしらの事を起こすつもりなのだろうか?強面の兄が誰よりも情に満ちていることは、琉夏が一番よく知っている。彼女が困ることを、琥一が進んでやるとは思えない。だが可愛くて仕方のない彼女を連れ去っていく聖司を、琥一が黙って見過ごすのも、言われてみれば変な感じがする。彼女が傷つかない方法ではあろうが、聖司に一矢を報いてやろうと心に決めていてもおかしくはなかった。
「待て。やっぱり俺も行く!」
「アァ?さっきまで行かねぇってごねてたくせに、何手の平返してやがる」
「俺も行く!コウばっかりイイトコ持ってくなんて、反則だ!」
「反則もクソもあるかよ。聖司のもんは俺のもん。三世代前からそう決まってんだよ」
「ダメ!ダメだ!セイちゃんのものは俺のものだ!ていうか、アイツはもともと俺のだったんだ!」
 琉夏の最後の言葉に、琥一の細い眉がぴくりと動いた。
「アァ?」、琥一は椅子から立ち上がった。「やんのか、コラ?」
 売られた喧嘩は買う。それが、かつてはばたき市に名を馳せた桜井兄弟の信条だった。
 血が滾る。琉夏も琥一のベッドから勢いよく立ち上がった。
「上等だ、コラ」

 その頃、地球の裏側では、ベッドに入ろうとしていた聖司が、二度ほど歪なくしゃみをしていた。

奈々さんへ
 (2010/10/24 Asa)