Amants Alnortun

Beelzeva/La fille du colporteur (Zill O'll infinite)

 長い時を費やし、ようやっと暦上の春が訪れた。
 先を急ぐ旅程の最中においても、冷たい風の中に少し強めの陽光を感じる機会は少しずつ増えてきている。
 けれども、北の大地は尚も冬の余韻を引きずっている。北の岩山から吹き下ろしてくる風は、冬のそれと大して違わない。
 数日前まで滞在していた大陸南部の気温に、油断していた。薄い上着こそ携帯していたが、首巻きや手袋の類は、荷物になるからとオルファウスの住む猫屋敷に置いてきてしまった。
「うう、寒い……」
 薄い麻地の上着で懸命に体を締め付けてみるが、寒の戻り真っ只中であるアルノートゥンの寒さには到底耐えられない。カサンドラは大きなくしゃみを二回した。
「だいじょうぶ?」
 ルルアンタが心配そうに下からカサンドラを覗き込んだ。大丈夫かと尋ねる当のルルアンタはといえば、生来の寒がりであるので、準備に余念はなかった。分厚いウールのマントにポンポンのついたアンゴラのマフラー、ミトンの手袋、そして手袋とお揃いの模様をした耳あてといった具合に、しっかり防寒対策を行っていた。
 見ているだけで暖かく……はならない。カサンドラはルルアンタに羨望の眼差しを向けた。
「寒い……。寒すぎるよ……。ルルアンタ、お願い……。マフラー、貸して……」
「えぇ!?また!?」
 ルルアンタは驚嘆した声を上げた。
「もう!もう!カサンドラったら!毎年言ってるでしょぉ!?カレンダーが春になっても、すぐに寒が戻って来るんだから!温かかったら脱げばいいけど、寒かったら着るものがないとどうしようもないでしょぉ!?」
「分かってる、分かってるよ、ルルアンタ……」
 カサンドラは震えながら何度も頷いた。
 これから向かうのは北なんだよと、猫屋敷を旅立つ前に、ルルアンタは口を酸っぱくして言った。それを、平気平気と言って聞かなかったのはカサンドラだ。しかしながら、寒そうに震えているカサンドラを見ると、やはり可哀相になり放っておけなかった。
 ルルアンタはしぶしぶマフラーを外し、カサンドラに手渡した。
「ありがとう!ルルアンタ!」
 カサンドラは受け取ったマフラーをすぐさま首に巻きつけた。ルルアンタの体温が残っているアンゴラのマフラーは非常に温かかった。カサンドラは至福の息を漏らした。
「しあわせ……」
「んもう!カサンドラったらぁ!」
 満悦の表情を浮かべているカサンドラに頬を膨らませて、ルルアンタはマントの襟を立てた。
 こんなことになるのなら、カサンドラの夫のベルゼーヴァにあらかじめ言いつけておけばよかった。
 フリントやルルアンタの言うことは殆ど聞かないカサンドラだが、ベルゼーヴァの指示には驚くほど従順である。
 恐らくは、ベルゼーヴァの説教が大変うるさく、かつ長く尾を引くからだろう。後々面倒になるくらいなら、と、つまりはリスク回避のため、カサンドラはベルゼーヴァの言うことにはなるべく従うようにしているらしい。

 そんな風に、ルルアンタがいささかやりきれない思いでいたところに、仲間である二人が戻って来た。
 こちらは二人とも、大陸北部のディンガル帝国エンシャント生まれのエンシャント育ち、ベルゼーヴァとザギヴは、共にディンガルの官僚服のマントを身にまとっていた。機能的でありかつ防寒にも優れた制服は、旅路においても十分に有用であるらしい。
 つい先日まで繰り広げられていた戦争の傷が癒えていないため、ディンガル帝国の官僚、しかも高官と一目瞭然で分かる者がいれば、北西部では冷蔑の目を向けられやすい。
 だが一旦アルノートゥンの町の中に入ってしまえば、それもなくなる。
 イオンズがカサンドラの仲間であることも相俟って、アルノートゥンの緊急時にカサンドラが何かと駆けまわっていたのが功を成し、アルノートゥンの町の人は冒険者カサンドラの一行には好意的なのだ。
「遅くなってごめんなさい」
 白い息を切らしながら、ザギヴが言った。
「宿は無事に取れたわ。明日にはアハブへ出発できるわよ」
「ありがとう、ザギヴ」
 カサンドラは鼻をすすってから、微笑んだ。
「雪が降ってないといいね。動いてれば寒さは凌げるけど、雪が積もってたら足を取られちゃうもんね」
「まだ雪が残っている可能性は高いな」
 心もとなさそうに空を仰いだカサンドラに、ベルゼーヴァはさらりと返した。
「記録書には確か、北の内陸部はおおよそ4月中旬まで雪が残ると書いてあった」
「うえええ」
 カサンドラは潰れた蛙のような声を出した。
「なんという声を出すのだ」
 ベルゼーヴァは眉をひそめた。
「仕方ないだろう。闇の門の島へ向かう前に、できるだけ闇の神器を集めておきたいと言ったのは、君ではなかったか?」
「はい、私です。すみません」
 カサンドラは項垂れた。
「アハブにあるかもしれないっていうのは、確か、虚無の剣?だったよね?」
「そうだ。確実ではないが、軍の書物庫に保管されていた機密文書には、北の大地に虚無の剣の手がかりがあるとあった。……かつては魔王バロルも虚無の剣を求めていた。手に入れる前に、彼奴はネメア様に討ち取られてしまったが」
 ベルゼーヴァがザギヴに視線を送ると、ザギヴも同意して頷いた。
「確かに、そうでした。私の指導教官であったアカデミーの教授も、虚無の剣の研究のため、幾度も北に派遣されました。混乱が悪化したので引き返してこられたそうですが」
 博識なディンガル高官が二人揃って同じことを言うのだ。間違いはないだろう。カサンドラは目を輝かせて、口の両端を持ち上げた。
「じゃあ、とりあえず行ってみる価値はあるってことだよね!」
「そういうことだ。それより」
 ベルゼーヴァは更に説明が続くような淡白な口ぶりで言った。
「何故、君が彼女のマフラーを借りている?」
「え」
 ベルゼーヴァの口調と問いかけられた内容の微妙なミスマッチに、カサンドラはきょとんとした。
 ベルゼーヴァは、無表情でカサンドラを見据えていた。ルルアンタにそろそろと目を向けると、ルルアンタは気の毒そうな表情でカサンドラを見上げていた。
 カサンドラはもう一度ベルゼーヴァの方を向いて、首を縦に振った。
「うん、借りた。だって寒いんだもん」
「猫屋敷で彼女から注意を受けたのではなかったか?」
「うん。でも、あのときは大丈夫だと思ったんだもの。こんなに寒いとは思わなかったから」
 詰問に対して居心地悪そうに肩をすくめたカサンドラを見て、ベルゼーヴァの眉間に皺が寄った。
「では君の読みが甘かったのだ。いくら姉妹とはいえ、彼女に甘えるのは感心しない」
「でも」
「でも、ではない」
 ベルゼーヴァの厳しい語調に、カサンドラは不服そうに唇を尖らせた。
 慌てたのは、ルルアンタであった。犬も食わない夫婦喧嘩、しかもこの二人のそれは始まれば長いときた。ルルアンタはベルゼーヴァの質問を遮ろうと、カサンドラの前に出た。
「ベルゼーヴァさん、大丈夫だよぉ!カサンドラが風邪を引いたら大変だもの!ルルアンタがね、カサンドラに貸してあげたの!」
「ありがとう」
 ベルゼーヴァはルルアンタに優しい笑みを投げかけた。
 が、カサンドラに歩み寄ると、カサンドラの首からマフラーを解いた。
「あっ」
 カサンドラ、ルルアンタ、ザギヴ、驚いた女性三名の声が重なる。
 ベルゼーヴァはおかまいなしに、そのマフラーをルルアンタの前に差し出した。
「カサンドラのために、気を使ってくれてありがとう。しかし、カサンドラにはもうこれは不要だ。君がつけていなさい。君は寒がりだったはずだ」
「えっとぉ……。でもぉ、カサンドラが……」
 ルルアンタは不安そうにカサンドラを見やった。首元の幸福をはぎ取られて、カサンドラは体を震わせた。そんなカサンドラを見ていると、カサンドラが悪いとはいえ、憐憫の情が沸き上がってしまう。
 ルルアンタは首を左右に振った。
「いいよぉ、ベルゼーヴァさん。ルルアンタのマフラー、カサンドラに貸してあげる」
「いや。寒いのはアルノートゥンだけでなくアハブでも同じだ。これからずっと君が寒い思いをする必要はない」
 きっぱりと断言して、ベルゼーヴァはカサンドラに向き直った。
「君も君だ。彼女から防寒具を巻きあげ、その上困らせてどうする。寒いなら予備の防寒具を買いに行けばいい。付き合おう」
「えっ」
 寒さとベルゼーヴァの嫌味で打ちひしがれそうになっていたカサンドラの目が、ベルゼーヴァの最後の一言でキラリと輝いた。
「本当!?買ってもいいの?やったー!」
 カサンドラは両手を上げ、その場でくるくると回転した。
 一方のベルゼーヴァは、はしゃぐカサンドラを尻目に、これ見よがしに大きな溜息をついた。そしてザギヴ、それからルルアンタに向かって言った。
「そういうわけだ。買い物を済ませたら、宿に向かう。君たちは先に行っておいてくれたまえ」

 ベルゼーヴァとカサンドラの背中を見送った後、ルルアンタとザギヴはアルノートゥンの酒場に入った。
 その酒場は冒険者の多くが愛用している。ルルアンタとザギヴの二人も例に漏れず、馴染みの店であった。食事も美味しいが、お茶も美味しい。古の樹海で採れる珍しい香草のハーブティーが楽しめるのは、ここアルノートゥンくらいである。
 風を阻む岩壁に囲まれ、地下熱で暖められた酒場は、暑いくらいであった。ルルアンタとザギヴは奥の方に案内された。程なくしてハーブティーが運ばれてきた。ハーブティーと一緒に、砂糖代わりに使うジャムが入った瓶もあった。花をベースにした甘いジャムだ。
「今頃、カサンドラ、ベルゼーヴァさんからたっぷりお説教を受けてるのかなぁ?」
 ルルアンタはジャムをたっぷりとお茶に入れた。両手でカップを掴んで、ふぅふぅと息を吹きつける。お茶からはほんのりと甘い香りが立ちあがった。ザギヴはジャムを入れずに、そのままカップに口をつけた。
「逆だと思うわね。ベルゼーヴァ様、カサンドラと二人きりになりたかったのではないかしら。これまでは私たちが一緒にいて、二人きりになるのも難しかったでしょうし」
「そうなの?なぁんだ、そういうことなのかぁ」
「そうよ。だってね?ベルゼーヴァ様ったら、今日の宿、部屋を二つ取ったのよ?」
「二つ?なんでぇ?」ルルアンタは、目を丸く見開いた。
 カサンドラやルルアンタら冒険者の一行は、基本的に宿では大部屋を取る。その方が安く上がるし、街の中で別行動を取る仲間たちと連絡を取る上で便利だからだ。
「あ、でも」
 ルルアンタは首を傾げた。アルノートゥンを始め、宗教色の強い街では、宿泊において独自のルールがある所もある。
「アルノートゥンって、確か、男の人と女の人は別々に部屋を取らないといけないんじゃなかったぁ?だから、ベルゼーヴァさんと、ルルアンタ、カサンドラ、ザギヴさんの三人で別々に二部屋……」
「そうならないように、わざわざ、私だけを連れて宿を探しに行かれたのよ。夫婦なら、同じ部屋が取れますからね。私とルルアンタで一つ、それからベルゼーヴァ様とカサンドラで一つ、部屋を取られたわ」
「あぁ、そういうことぉ」、ルルアンタは微苦笑した。
「それなら、カサンドラと一緒にいたいってはっきり言えばいいのにぃ。カサンドラがベルゼーヴァさんに怒られたのかと思って、ルルアンタ、冷や冷やしちゃったぁ」
「そうね。でも……、カサンドラに甘すぎるベルゼーヴァ様は、ちょっと想像できないわね……」
「そぅお?ベルゼーヴァさんが怒ってないなら、なんだかんだ言っても、あの二人はイチャイチャしてるよぉ。今もきっと」

 ルルアンタの読みは的確だったと言える。
 カサンドラとベルゼーヴァの二人は、観光スポットである天教院の中にいたが、カサンドラはベルゼーヴァが着ているマントの中に、包まれるようにして入れてもらっていた。
 くしゅんと痛々しいくしゃみを飛ばしたカサンドラに、すぐ後ろから「寒いか?」とベルゼーヴァの声が掛かった。
「寒いよ」
 カサンドラは声を震わせながら、振り返った。ベルゼーヴァはしれっとした顔をして、「自業自得だ」と言った。
「準備不足だった君に落ち度がある」
「それはもう何度も聞きました」
 カサンドラは不服そうに顔をしかめた。
 天教院はアルノートゥンの街中でも高い場所にあるが、周囲に岩がそびえ立っていて、建物の中まで風が通ることはない。そのため、外よりは寒くない。けれども常時火を入れているわけではないので、他の町に比べればやはり寒い。
「ところで、宰相、買い物行くんじゃなかったの?いつ行くの?」
「今行ったところで、まだシエスタ中だ。特にこの季節のアルノートゥンは、観光客が殆どいない。食堂やギルドでない限り、いつもより長くシエスタを取っている可能性も高い」
 カサンドラは、それならもう少しルルアンタのマフラーを貸しておいてもらえばよかった、と思ったが、言い返すことはやめておいた。
「オフシーズンってやつね。どうりで、イオンズさんが今なら動きやすいだろうって言ってたわけだ」
「そういうことだ。今は天空神ノトゥーンの祭りの季節だ。ノトゥーン教徒は皆、霊峰トールに巡業を行う。……今頃、ロセンやテラネに人が集まっているだろう。こういう不安時であれば尚更」
 体が密着していて距離が近いからだろう。ベルゼーヴァの言葉の終わりが微かにくぐもったのを、カサンドラは聞き逃さなかった。
 霊峰トールへの道程は、いずれにしてもテラネを経由するが、その前に巡業者たちは帝都エンシャントかロセンで準備を調えるのだろう。本来なら、エンシャントも多くの人で賑わっていたはずだ。
 だが今は誰もいない。闇から生まれた魔物が街中にはびこるようになってしまった今、戦う力を持たない人たちがエンシャントに立ち寄る理由はない。エンシャントを迂回して北上するか、ロセンのギルドで腕の立つ冒険者に護衛を依頼していくか―、エンシャントを避けるようにして霊峰トールへ赴くに違いない。
「残念だね」
 カサンドラはポツリと囁いた。
「エンシャントは賑やかなのがいいよ。早く活気が戻るといいな」
「そうだな」、ベルゼーヴァは抑揚のない、しかし腹の底から吐き出すような声で言った。
「そのために、ネメア様をお助けし、闇の勢力を徹底的に叩かねばならない。……君の活躍に期待している」
 カサンドラの後背から、そうっとベルゼーヴァの手が伸びてきた。カサンドラの鳩尾あたりの前でベルゼーヴァの両の手が組まれた。
 期待されたところで、カサンドラにできることなんてたかが知れている。
 闇の神器を集めて、ネメアを救い出すこと。そうしてウルグの召喚を阻止すること。倒すべき相手が判然としているわけではないから、一寸先は闇であるように感じる。
 けれど、剣を握り、闇の勢力との交戦経験を持つカサンドラだからこそできることもあるだろう。
 それに、好きだと思う人に期待してもらえるのは、素直に嬉しい。ベルゼーヴァはとにかく手厳しい人物であるが、その彼がカサンドラに対して「期待」という言葉を口にしてくれるということは、それだけカサンドラのことを認めてくれているということだ。
「できるだけ、頑張ってみるね」
 カサンドラは、ベルゼーヴァが組んだ手の上に、自らの手を重ねた。

 カサンドラとベルゼーヴァの二人が宿に着いたのは、夕暮れも近い時間であった。
 ルルアンタとザギヴはまだ宿にいなかった。てっきり先に到着しているものと思ったが、念入りに探索の準備を調えているのかもしれない。
 黒いマントに、耳あてのついた黒い帽子に、黒いマフラー。カサンドラは、傭兵や鉱山作業員の多いアルノートゥンらしい、シンプルかつ動きやすさを重視した一式を購入した。
 上から下まで黒づくめで、色気は全くなかったが、それはそれで自分に似合っていると思ったから、ルルアンタとザギヴの二人に、お披露目したかったのに。
 残念ではあったが、仕方ない。カサンドラはベルゼーヴァの後に続いて、宿の階段を上った。
 ベルゼーヴァに勧められ、部屋に入ると、そこには少し大きめのベッドが一つと、リンボクで作られたデスクが一つあるだけであった。
 他にソファや簡易ベッドらしき家具はなく、部屋自体もあまり広くはなかった。部屋の奥の暖炉だけはなかなか立派で、既に火が起こされていた。
 いかにも一人用の部屋を見て、カサンドラは一瞬「あれ?」と思い、唖然とした。が、男女の部屋はそれぞれ別に取るという、アルノートゥンの宿のルールを思い出し、合点がいった。ここはベルゼーヴァが取った男性用の部屋だ。複数人数用の部屋でなくて当たり前である。
 ベルゼーヴァが荷物を置き、マントを脱ぐのを見ながら、カサンドラは「宰相」と声を掛けた。
 ベルゼーヴァが振り返ると、カサンドラは扉のところで立ち尽くしたままであった。
「どうしたのだ?早く入りたまえ」
「私も荷物置いてきたいよ。私たちの部屋はどこ?」
 ベルゼーヴァは怪訝そうな顔をした。
「何を言っている?この部屋が私たちの部屋だ」
「え?ここ、男性用の部屋だよね?宰相が一人で休むための部屋じゃないの?」
「どうして私が一人で休まねばならない?」
 質問に質問が返って来る状況に、カサンドラはますます混乱した。
「ええと」と言って、可能な限り考えをまとめてから、カサンドラは再度口を切った。
「ザギヴとルルアンタの部屋はどこ?」
「彼女ら二人の部屋なら、隣だ」
 ベルゼーヴァは、ベルゼーヴァから見て左の部屋を顎でしゃくった。
「宰相の部屋はここだよね?」
「そうだ」
「じゃあ、私の部屋は?隣じゃないの?」
「だからここだと言っているだろう」
 綽然とした様子で言いきるベルゼーヴァを見て、何となく事情が掴めて来た。
 つまりは、カサンドラとベルゼーヴァ、ルルアンタとザギヴ、二人ずつの部屋を取ったということだ。
「どうして!?」
 カサンドラの声は驚きで裏返った。
「ど、どういうこと!?」
「どういうことも何も、何故驚く?同じ部屋で休むのは今に始まったことではないはずだが」
「それは、ロストールでの話でしょ!?あれは、エリエナイ公の広い屋敷を借りられるからであって!」
「ならばこの宿とて変わりない。今の時期のアルノートゥンは、観光客は勿論、冒険者も少ない。小部屋も多く空いていた」
「でも……、だからって……」
 カサンドラは狼狽した。
 カサンドラとベルゼーヴァの関係を知っている仲間たちの間では気にならないことでも、そうでないところでは気に掛かることがあるのだ。
 一つしかないベッド、その部屋に、冒険者風情の女と、見るからに高級官僚の男が二人きりで泊まるということを、宿の者は奇妙に思わなかったのだろうか?
 困って俯いてしまったカサンドラを、ベルゼーヴァは尚も不思議そうに見ていたが、「とにかく入りたまえ」と促した。
 折角火が起こされている部屋の暖が逃げてしまうことを考え、カサンドラはしずしずと扉の方に向き直った。
 真正面からベルゼーヴァを見る勇気はなかった。扉を閉めてしまえば、二人だけの空間ができあがる。
 二人で並んで街を歩いたり、食事をしたりするのとはわけが違う。これまで人の目があるく一般の宿で、ベルゼーヴァと一つのベッドを共有したことはなかったから、違和感は拭いきれなかった。
 そんな風に扉のノブを手に取った状態で硬直しつつあったカサンドラの目の前、扉に、ふと長い影が伸びた。扉を覆う黒い影は、カサンドラが振り返る前に手を伸ばしてきた。それはカサンドラの首の横を通り、掌は扉に辿りついた。扉は軋んだ音を立て、程なく閉じた。
「どうした?」
 ベルゼーヴァは押し殺した声で尋ねた。ベルゼーヴァの吐息がカサンドラの髪の毛をくすぐった。
 カサンドラは肩をすぼめて「ううん、別に」と答えた。逃げられない。逼迫感に、カサンドラは思わず息を呑んだ。
「私と同じ部屋は嫌か?」
「そ、そんなことないよ!今更、でしょ?今更!」
 強がって声を張り上げたものの、途中から上ずってしまった。
 きまりが悪くて、カサンドラは口をつぐんだ。ベルゼーヴァの顔を見ることができなかった。
 数秒経って、今度はベルゼーヴァが口を開いた。
「夫婦が揃って一つの部屋を取っても、何もおかしいことはないだろう。何故緊張する必要がある?」
 夫婦、ベルゼーヴァが発した言葉に、弾かれたようにカサンドラは頭を上げた。
 振り返ると、ベルゼーヴァの顔がすぐ目の前にあった。後ずさりしてしまいそうになるのを寸でのところで押えて、カサンドラは小声で尋ねた。
「夫婦……?」
「夫婦だろう?」
「ふ、夫婦なの……?」
「正式な手続きは終えていないが、あとはただ書類上の問題に過ぎない」
「お、おかしくない?」
「何が」
「宰相みたいな……、その、お偉いさんと、私みたいな冒険者の組み合わせって。普通の人から見たら」
 ベルゼーヴァは、眉を上げた。カサンドラが何に困惑しているのか、ようやっと理解した。
 ベルゼーヴァは、フッと噴き出した。ベルゼーヴァに笑われ、カサンドラの顔がみるみる赤く染まってゆく。
「なんで笑うの!?」
「いや……、想定外だったのでな。そんなことを気にしていたのか」
「そんなことって!大事なことでしょ?宰相は貴族だし!」
「貴族と言っても、下級貴族だ」
「それでも貴族は貴族でしょ?」
「ディンガル帝国で貴族に対する優遇政策が廃止されて久しいことは前にも説明したな?才能があれば、家柄や血筋は関係ない。その方針がディンガルの国力の源であり、誇りでもある」
「で、でも……」
「ふむ、さすがは大陸南部の出身と言うべきか。君にディンガルの掲げた方針を落とし込むにはまだ時間がかかるようだ」
 そう言うと、ベルゼーヴァはひょいとカサンドラの体を抱き上げた。
 華奢な割に、ベルゼーヴァは腕力が強い。双剣を使いこなすには相当の腕力と技術が必要だというから、ベルゼーヴァも剣術を磨くため、肩から背中にかけてのトレーニングを積んだに違いない。
 等と、カサンドラがベルゼーヴァの鍛錬の様子を想像している間に、カサンドラはベッドに引きこまれた。
 気がつけば、ベッドの上でベルゼーヴァに体を組み敷かれていた。
「私が君を選ぶのは必然のことだ。誰しもそれを認めている。君もただ私を受け容れればいい」
「ちょっ……!」、体が火照って感じるのは、羞恥心を火に煽られたせいだ。
「まさか、今からするの?今から!?」
 ベルゼーヴァは口元に笑みをたたえた。
「何のための同室だと?」
「え、えっち!ベルゼーヴァのえっち!」
「男とはそういうものだと教えたはずだ。求められるまま受け容れろと」
 ベルゼーヴァはカサンドラの耳たぶを咥えると、右手でカサンドラの帽子とマントをはぎ取った。続いて、衣服に鎧。ベルゼーヴァの手によってカサンドラはあっという間に裸にさせられた。
 ベルゼーヴァがカサンドラの肌を啄む先から、赤い小花が生まれ、鎖を編んでゆく。ベルゼーヴァの執拗な口づけに、やがてカサンドラの首回りには口づけの首飾りが出来上がった。
「は、ぁっ……!」
 首回りに帯びる熱がもどかしい。点在する温もりは線になり、否応なしにカサンドラの体を女に変えていく。
 ベルゼーヴァはカサンドラを見下ろしながら、目を細めて口角を持ち上げた。
「観念したまえ。……私とくっついていれば、寒くもないだろう」
 そう言って笑うベルゼーヴァの顔は、とても満足そうであった。

レピシエさんへ ※「アルノートゥンの恋人たち」
 (2011/3/27 Asa)

※虚無の剣のくだりは、「トリニティ・ジルオール・ゼロ」とのリンクになります