く す ぶ る 想 い




夕暮れは妙にゆっくりと時間が過ぎるように感じる。

青々と空に水彩絵の具をのばしたような色が、じわりじわりと橙色を帯びて、その影が黒く広がっていく変遷が、目に見える形で進行している。

氷帝学園の窓から見える、時の移り変わりを漫然と見詰めつつ、侑士は、廊下をたらたらと歩いていた。
今日は部活のない日だったから、侑士は今の今まで図書館にいた。
今度映画化されるという本の和訳された物を読みふけっていたところだった。

ふあぁとけだるいあくびをひとつこぼす。
目を酷使すると、眠気が襲ってくる。
それは今に始まったことではないが、あまりに夢中になって本を貪り読んでいたから、許容範囲を越えて目を使いすぎたのだろう。




サッカー部の部員の元気のよすぎる掛け声と、ボールを蹴る音が、どこか遠くから聞こえてきていた。
「青春やなぁ」と皮肉交じりにつぶやき、口角を上げた。
それから侑士は、教室へ戻る道のりを進んでいく。
置きっぱなしだったはずの、本日の課題をこなすために必要な英語の辞書を求めて。









ガラリと教室の扉を開く。
殆ど生徒は残っていないものだと思っていたから、遠慮など全くしない。
無造作に開かれた扉は、もっと優しく扱えよといわんばかりに、サッシと擦れ、鈍い音を立てた。

けれども、扉を開いた先の教室には、生徒が残っていた。

「あ。」
侑士は物憂げな目を少しだけ見開く。
嫌な場面に遭遇した、と、心の中は眉をひそめたくなるような思いでいっぱいだったけれど、度の入っていない眼鏡が、窓から入る夕暮れの光に重なって、侑士の表情に陰りを加える。
長い前髪で瞳を隠したいかのように、侑士は顔を俯けた。
「…おったんか。」

嫌味になってないだろうか。
皮肉っぽく言っていないだろうか。
さまざまに心を去来する気持ち。
それを全て飲み込んで沈黙を前に押し出す。
こうやって他人を拒絶することでしか、今の自分は存在できないのかもしれなくて。
それは酷く哀しく、酷く空しいことであるように思われた。





「あぁ?」

しっとりとした低い声が返ってきた。
それと同時に、甲高くない、愛しくてならない声も返ってくる。
「あ、侑士くん、おかえり。忘れ物?」

「彼女」がにっこりと微笑んで、首をかしげる。
「まぁ、そんなトコ。」
どすどすと歩いて、自分の机まで行く。
そして、ひょいと机の中を覗き込んで、静かにそこに身を横たえていた英語の辞書を取り出した。
「今日の課題、辞書ないと出来へんもん。」
侑士は独り言じみた言葉を吐いて、二人の方を振り返る。

どうやら、彼女は跡部と二人で何か勉強でもしていたらしい。
二人が向き合っていた机の上には、沢山の教科書やら参考書が置いてあった。
…とはいえ、その殆どが「国語」のものであることを見ても、帰国子女である彼女が跡部をひっつかまえて、苦手な国語を教えてもらっていると見た方が妥当だろうが。

彼女らを振り返った侑士の瞳の先など気にもせず、彼女はからから笑っている。
「あ、あの英語の長文読解でしょ?あたしも、あれ、ヤなんだよね。」
「何だ、お前ら、辞書がないとあんな課題もこなせないのかよ。」
「……ムカつく、跡部。」
「ほんまや。蹴ったれ。」
「うん。」
彼女の返事と同時に、ゲシっという鈍い音が、彼女らが隣り合わせにしていた机の下から聞こえた。

本当に彼女は跡部を蹴飛ばしたらしい。
「あの」跡部に蹴りをいれるとは、素直というか、怖いもの知らずというか。
「ってぇ!」と声を漏らした跡部と、「跡部が生意気だから悪いんでしょ」と顔をしかめている彼女を交互に見ながら、侑士はくすりと笑った。




現実問題、この二人の仲のいい姿を見るのは、物凄くコタえるのだけれど。
心がきしきし軋んで、何か分厚い綱に引き絞られているような心地さえするのだけれど。
その黒い気持ちすら、彼女への愛情の前には勝てなくて、何も言えず侑士は二人を見守るのが精一杯だった。

彼女の方は、侑士の気持ちにはちっとも気づいていない。
跡部の方は、どうなのか分からない。

何せ彼女に直球で愛情をぶつける跡部は、何につけても溢れ出る自信を持っていて、侑士など眼中にないことくらいしか、侑士には想像も出来ないのだった。
(まぁ、ええねんけど。)
笑いの中に寂しさを込めて、侑士は一人、思う。

(面倒なことになって、彼女を苦しめるのが本意じゃあらへんからな。)、と。



けれども、いつもどおりの何の他愛もない場面が今日も繰り返されるかと思ったとき、不意に彼女が腕時計を見て席を立った。
「あ、あたし、ちょっと小父さんのところ、行って来る。」
彼女は軽やかにスカートを翻して、教室の扉まで進んだ。

「ママに何か渡したい物があるから、今日の会議が終わる頃来てくれって言われてたんだ。」
待ってて、と跡部にいい、いってきます、と侑士に告げた。
そのにっこりと微笑む姿は、清廉そのものだった。
侑士はそれを眩しそうに見つめながら、彼女を送り出した。
彼女が過ぎ去った後の残り香が、ふわりと侑士の鼻腔をくすぐった。

(………?)

しかし、教室を去った彼女の残り香に、侑士は一種の違和感を感じた。
その香りは彼女が普段愛用している、甘い花の香りではなかった。
そう、これは…。

(跡部の?)

好みが五月蝿い跡部が、わざわざ調合させたという独自の香水は、その香り自体が特別である。
それが他の人間から香ってくるなどということは普段なら絶対にありえないことだった。
(……まさか。)
たどりついた結論から、侑士は、眉頭に皺を刻み込む。
こういうときの嫌な勘というものが的中してしまう自分が大嫌いだ。

彼女の足音が徐々に遠ざかっていくのをきちんと聞き届けて、侑士は跡部の方を向き直った。
跡部は彼女が教室から去ったことで、退屈になってしまったのか、ぺらぺらと教科書をめくっていた。
綺麗に手入れされている髪の毛と、我流に着崩している制服。
彼のいたるところから、跡部の香水は香ってくる。
けれども同時に、物凄く質のいいはずである香水のそれは、滅多なことでは他人に移ったりしないものであることも事実だった。



「跡部。」

喉がいささか渇いている気がしたが、バクバクと鳴り荒ぶ心臓の鼓動で、侑士はそれすらも忘れていた。
侑士に声をかけられて、跡部がだるそうに顔をあげた。
「何だぁ?」
不遜に光る眼光。
普段なら、面倒なことはなるべく避けたい侑士は、跡部に意見をしたりしない。
だが、彼女のことになると、侑士も跡部同様に、まったく理性というものが狂ってしまうのが現実だった。

「あんまし、感心出来へんわ。」
言葉を選んで、侑士は目を細めた。
「彼女に香り染みついとるやん。
 下手して先生にでも気づかれたら、どないするんや。」
侑士が何を言いたいか、それらの言葉の端だけですぐに察した跡部は、柳眉をわずかに寄せた。

「………説教か。」
「そんなんとちゃうやろ。
 …榊センセのように、お前の使とる香水も、
 彼女自身のこともよく知っとる人もおるんやから、
 あんまし学校でいちゃつかん方がええで、ってことや。」
「おんなじじゃねぇか、説教だろ。」
「………。」

説教と言ってしまえば、確かにそれまでだ。
侑士は跡部から目を逸らし、口をきゅっとつぐんだ。
何を言えばいいのか、こんなときに限って、適当な言葉というものが思い浮かばない自分がいる。

「それに、テメェにどうこう指図されることでもねぇよ。」
椅子の背もたれに、ゆったりと背を寄りかからせて、跡部も侑士から目をそむける。
交差しない視線が、静かな教室でずれる。
妙な沈黙が生まれていた。

跡部と彼女の恋愛に関して、たとえばそれが誰もいない場所でのいちゃつきとかであった場合、侑士には何の関係もない。
指図されることでない、というのはその意味で正しかった。
(まぁ、確かにそうなんやけど。)
けれどもそう言われてしまっては身も蓋もない。
侑士は、頭の中でイヤというくらいぐるぐる巡る悶々とした思いに流れる。

(…でも、やっぱり分かる人にはわかってまうし…。
 あれだけ残り香がしっかりついてるってことは…。)
普通にいちゃついていた、というだけではない気がする。
指で擦ったら、消えるどころかますます油を拡大させゆく黒い原油のように、侑士の心に渦巻く気持ちが萌芽する。

けれど、侑士はそれ以上の思考回路に嫌悪感を覚えて、そこで何とか思考を打ち止め、跡部の目を直視することなく、黒板の方へ目をやった。

こういう負の気持ちを全て飲み込んでしまうのは。
(…彼女のため、か、それともオレのため、か。)

声に出さない程度の、自虐的な含み笑いをわずかに口元に浮かべた。
乱雑に消された痕が残る黒板は、うっすら白みを帯びた波を描いていて、侑士はわけもなくそれを眺めていた。

しかし、跡部は、侑士が一瞬浮かべたその笑みを見逃さなかった。
腹から搾り出すように、声を空気に滲ませた。
「…何がおかしい。」
その跡部に、侑士は、おっとといったように、わずかに身体を後しざりさせた。
ちょっとした仕草も決して見落とさない跡部には、どんな自分の表情も見せられない。
「別に。…仲よろしいことで、思うただけや。」

嘘付け。
侑士の心の中で、もう一人の自分がそう吐き棄てた。
誰もいない教室で、二人、何をしてたのか。
どうして、彼女の心を跡部だけが独り占めするのか。
自分が手を伸ばしても手を届かないところにいる彼女に、一体自分は何をどうすればいいのか。

色々な想いが錯綜して、頭をごちゃごちゃにしていくけれども、侑士は、薄ら笑いを浮かべることで、心中のその鬱陶しい思いを払拭した。
そんな侑士の、不気味にも見える薄ら笑いを見て、跡部は更に不快に思ったらしく、眉をひそめる。
整った、ほりの深い顔立ちは、わずかな表情の変化も明るみにする。
侑士も、あぁ、怒っとる、跡部、とは、ぼんやり感じていたが、口元に弛む薄ら笑いは、既に引きつった筋肉を支配していて、今更彼の意思で動くようなものでもなかった。

跡部は、侑士をきっと見据えたまま、眼光を光らせている。
「…お前、随分、あいつに気あるみたいじゃねぇか。」

ずき、と痛いところを突かれた侑士は、このとき初めて、消えないままの薄ら笑いに感謝した。
仮面をかぶるのは慣れているが、直に跡部に向き合った状態で彼女の話をして、尋常でいられるほど、侑士も強くはない。

侑士の喉がからからに渇いていた。
じりじりと痛む喉は、侑士の音声すらも奪っていく。
「…あのなぁ」と侑士が跡部につぶやいた時点では、既に、声はがらがらだった。

普段なら、ここで侑士は「んなわけないやろ」と、跡部の言うことを一蹴する。
跡部と彼女が愛し合っていることは、見るも明らかで、自分が出る幕などないと言うことを、心得ているからだ。
けれど、先ほど彼女が身に纏った跡部の香りが、侑士の心を油黒く彩ってしまっていて。
彼女の不在も、円滑に侑士の暴走する心を推し進めていく。

「もし、そうやったとしたら、お前、どないするん?」

唇を横に引いた薄ら笑いが、一層横に長く伸びた。
目を細めて跡部を眺める。
確かに跡部を見ているはずなのに、そこにいるのが本当に跡部なのか、それともただの肉塊なのか、それすら侑士の今の心では把握できない。

「……人の気持ちなんて、分からへんわなぁ。
 場合によっては、彼女だって、オレに転んだりしてたかもしれへんやん?
 なんてったって、今だってオレは、
 色々お前のことで彼女の相談にのってやったりしとるくらいやからな。
 お前がモテてモテて困っとるのを見ては、彼女、凹んどるし。
 悩みは尽きんようやしなぁ?」

一度噴出し始めた油田は、それを全て噴出すまで、とどまることを知らぬ。
侑士の堆積していた苦悶も、また然りだった。

一方の跡部は、侑士の発言に対して、みるみるうちに顔色が変わっていった。
まさか、侑士がこのように切り返してくるなどとは思ってもいなかったのだろう。
その上、彼女が自分のことで多少なりとも悩んでいて、それを自身ではなく侑士に打ち明けているという状況を聞き及び、内心動揺しているのかもしれない。
普段見せている余裕の表情など、今や全く彼の面にはなかった。

そんなふうに跡部の顔が能面のように蒼白になっていくのが、侑士には何だか可笑しかった。
ハっと侑士は、息巻いた笑いを見せる。
「どしたん?何か、言いたいなら言えばえぇやん?」
椅子に腰掛けている跡部を見下ろすように、視線を投げかける。
跡部の彼女に思いを寄せているのは自分の方なのに、どうしてこれほど堂々と自分がしているのか、あべこべな気もしたが、もうそんなことはどうでもよかった。

彼女が侑士に心を寄せるはずがない、と跡部は断言できないらしい。
唇をかみ締め、侑士を睨んでいる。

いや、彼女は侑士を好きになるはずがない、そう断言しようと思えば出来るのかもしれないが、彼女は、ちょっと前に大きな失恋を被ったばかりの人間だった。
普通の女子よりもよっぽど繊細になってしまっている彼女を傷つけでもしたら、すぐに失ってしまうのではないか、と跡部も弱気になっているのだろう。

それをすばやく判断して、侑士は顎をわずかにあげた。
髪が侑士の動きに応じてさらさら流れた。
「まぁ、無理、やろな。
 跡部、ちょっと多情すぎんねん。
 本当に大事なもの、失っても、知らへんで。
 ………手塚のように、カタすぎんのもアレやけど、
 お前みたいに柔らかすぎんのも問題なもんやな。」



止めだった。


彼女がかつて深く想いを寄せていた男子の名前が出たことで、跡部の眉は極端につりあがった。
ガタンと、勢いよく跡部が立ち上がる。
あまりに唐突に跡部が立ち上がったものだから、彼が座していた椅子がその反動でがたんがたんと揺れ、大きな音をたてて床に倒れた。

「ンだと……。」

心底怒っているのだろう。
普段の跡部の美麗な声は震え、低くくぐもっていた。
こんな顔は滅多に見られるものではない。
たった一人の少女のためならば、何も跡部は惜しまないのだ。

跡部もまた、己と同じ、単なる恋する男。
侑士は頭の隅でそれをぼんやりと感じ、薄ら笑いを口元で緩ませたまま、ひらりと身を翻す。

「オイ、待て、忍足!」

跡部の怒声が、彼に背を向けた侑士の耳に届く。
侑士は目を伏せた。
これ以上、跡部のことをちくちくとつついても、実際侑士には何も利がない。
無駄に跡部と議論を戦わせても、それは所詮机上の空論。
彼女は跡部を現在選び、彼に身をゆだねている。
それ以上でもそれ以下でもない、たったひとつの真実が大きく、侑士の背にはのしかかっていた。
跡部に後ろ向きになったまま、侑士はひらひらと手のひらを揺らした。

「お大事に。」

全く筋違いの言葉だけ残して、侑士は教室の扉まで進む。
そして、横に扉を引いたかと思うと、跡部を一切振り返らぬまま、後ろ手に扉を閉めた。

今、跡部はどんな顔をしているのか、あるいはどのような行動をとっているのか。

彼を怒らせても、何も変わらないのに、何故このような子供じみたことをしたのか、侑士にも自身がうまくつかめなかった。

(あかんな。)

ふ、と苦笑を唇に纏い、侑士は顔を数ミリうつむけた。
(八つ当たり、やん。)

彼女を手に入れたくても手に入れられない。
欲しくても欲しくても、この手に抱くことは出来ない。
奪って、さらって、そしてめちゃめちゃに壊せたら。
きっと、そこで断罪されて死んでもいい、と思えるだろうに。

愚かな感傷に浸って、侑士は、廊下を進む。
今、職員室から戻ってくる彼女にたとえば出くわしたなら、そのまま何をしでかすか分からなかったから、あえて彼女が通らないルートを辿って、下駄箱へ。
人気のない寂しい道のりは、ただ一人、ポーカーフェイスを着用したまま、今後も歩み続ける己を思わせて、妙に侑士の胸を切なくさせた。













ブラウザバックプリーズ













<あとがき>
70000HITのニアピン、70002をゲットされたmasamiさまからのリクエスト、てにぷり氷雪月華の設定で、「跡部にはっきりと物申す忍足」だったのですが。
な、難産でございましたっ…。
何せ、うちの忍足、悶々とよわっちいのがウリ(?)の、腹黒な男子なので、跡部に物申すのも、一苦労で。
今回何とか物申したのも、これが限度…でした(涙)。
ごめんなさい〜。
は、発想力が貧相なのですね(言い訳)。
とりあえず、いつも余裕に構えている跡部をここまで言葉で怒らせた、というだけでも、うちの忍足にしてはよくやった!なので、堪忍していただければ(脱兎)。