大 観 覧 車


「は?今何て?」

益田は、素っ頓狂な声をあげた。
目の前にいる悪友から今まさに放たれた発言は、益田を少々困惑させていた。

目の前の友人、氷室零一は、益田のそんな様子に顔をしかめながら、
益田が先ほど作ったマティーニを口につけ、再び口を開いた。
「きちんと人の話は聞け。来週の月曜、鉱物採集に行く打ち合わせをしたいのだが、と言った。」

毎年、益田は零一に付き添って鉱物採集にでかける。
それは零一の趣味であったが、
益田としても、それほどそれが嫌だと思ったこともないし、
またその近くには必ずいい温泉地が湧き出ているので、
日頃の疲れを癒すのもかねて、
時には何人かの連れを誘って、益田もその鉱物採集に出かけていた。

今年もそれをするらしい。
そして、その日程は、毎年春分の日前後に決まっており、
益田はそのときだけ店員に店を任せて出かけていくのだ。
その鉱物採集の旅行の打ち合わせに、
零一は、よりにもよって3月15日の月曜日を指定してきたというわけである。
「月曜か、…その日はちょっとな…。」
益田は口をどもらせた。

馬鹿言え、月曜日はダメに決まってるだろうが。

なんてことは、益田は零一にはまだ言えなかった。
月曜日は、自分が唯一彼女に会える日で、すでに学期末考査が終わったその一週間、
補習とは無縁の彼女は、午前中で授業を終えてしまうのである。
だから、益田はその日、1月に臨海公園にオープンしたばかりの大観覧車に乗ろうと
前々から彼女と約束をしていたのだった。
それも折りしも、ホワイトデーの翌日であるその日に、
零一と会って鉱物採集の話をしている場合ではないのである。


「では、いつ打ち合わせをするというのだ。もう時間はそうそうないんだぞ。」
ちょっと酔いの回った零一が、きっと益田をにらんだ。
頬がわずかに赤らんでいる。
恐ろしいほど白い零一の肌は、赤らむとまるで大福のようで、
益田はその頬を突付きたいとつねに思っていた。
「…3月13日の土曜日の夜、この店でいいだろ。」
「お前、その日も勤務中だろう。」
「休憩多めにとるから、かまわない。」
零一が怠惰を嫌うことくらいは益田にもよく分かっていたのだが、
でも15日だけはどうしても譲ることは出来ない。


しかし幸いにも零一は少し酔っていた。
こういうとき、零一を丸め込むのは益田の得意技だった。
「それに、皆も土曜日の方が集まりやすいと思うぞ。
 皆それぞれ社会人だからな。零一だって、翌日学校がない方が気楽だろうが。」
「…それもそうかもしれんが、しかし…。」
「大丈夫だって、その日は、多くの店員をシフトに入れるし、
出来るだけオレも店の方に集中するから。
 とりあえず、月曜はちょっとダメなんだ。土曜で頼むよ。」
零一は、「頑張るから」というような態度を見せれば、
わりと簡単にこちらの要求を受け入れてくれるのである。
「…仕方ないな、今回だけは特別だぞ。」



勝った…。

益田はひそかにこぶしを握った。
零一先生には悪いけど、やっぱり彼女と会える数少ない時間を、無駄には出来ないからな…。
もし、今自分が夢中になっている女性が、
零一の教え子だと知ったら、あいつはどうするだろう…?
まあまず間違いなく引き裂かれるだろうな…。
益田は力なく失笑する。
何せ、零一は益田のかつての女癖の悪さをよく知っている。
それも教え子である彼女は、成績はつねにトップクラスを保持しており、
零一にとって見れば、彼女はお気に入りの生徒の一人なことだろう。
零一から見れば明らかにつり合わない自分と彼女…。
益田は、零一に自分の恋を知られたくない一因として、
何よりもそれを指摘されるのが怖いのかもしれなかった。



3月15日、快晴。
その日は、春先のあたたかな風が、海を渡ってはばたき市に心地よく吹き付けていた。
益田の隣では、彼女がはしゃぎながら微笑んでいる。
この満ち足りた気分は、何物にも変えがたいものだ。
臨海地区に彼女と来るのは、これで二回目だろうか。
確か去年のホワイトデーにもこの辺に来た気がする。
あの頃と少しだけ変わった風景と、大きく変わった自分の環境…。
寄ってくる女を抱いていた頃とは違う、まるでぱんぱんの風船が胸にはまっているような、
そんな不思議な感覚が、益田の心に静かに芽生える。


臨海地区の大観覧車は、遊園地の観覧車とは違って、さすがに大きい。
大観覧車を見上げると、大きな円が目の前に立ちはだかっている感じだ。
まるで、海の果てまで見渡せそうな、その迫力に益田も少しだけ圧巻された。
彼女が、嬉しそうに益田の手を引っ張った。
その仕草はまるで子供のようで、それでいて彼女の手の温もりは益田を艶めかしく誘っているようで、
益田は思わず困ったような笑顔を浮かべた。


オレは君にどうしたらいいんだろうね?

オレは君にとって何?
保護者?
セックスフレンド?
…それとも恋人?
女との関係なんて欲しいと思ったことはないのに、
こんなに称号が欲しいと思ったのは、はじめてかもしれない…。
益田は、不思議な感覚に身を委ねながら、彼女に引っ張られるまま大観覧車に乗り込んだ。




「どうしたの、益田さん?」
大観覧車に乗り込んだあと、彼女が益田の顔を覗き込んだ。
柔らかい笑顔。
幼さと女性が混在したその表情に、益田は思わず目をそむけてしまう。
その大観覧車の空間が密室だからかもしれなかった。

二人っきりになると、彼女を愛したくて、
そしてその自分の焦りが彼女を時に困らせてしまうことも益田には分かっていたけれど、
でもどうしてもいつもそれを止められなかった。
今だって、ちょっとタグがはずれたら、
一気に彼女になだれこんでしまいそうな気がして、自分自身が怖い気もする。

しかし、目をそむける益田の姿が珍しいのか、彼女は背けた先の視線上に顔を持ってくる。
「益田さん?」
二重の丸みを帯びた彼女の瞳は、いつもどことなくうるうるしていて、
そのみずみずしさに、益田はいつも捕らわれてしまう。


ダメだ…。
自分の欲求と理性の狭間で揺れ動いていた益田は、
彼女の腕を引っ張って、自分の方へと寄せた。
「きゃっ。」
大観覧車がごとりと動く。
彼女は、それに少し怯えた様子で、足元をちらりと見た。
益田は、自分の膝の上に、彼女を乗せて、後ろから彼女をきゅっと抱きしめた。

いい香りがする。
何のシャンプーの香りだろう…。
シトラス系の爽やかな甘い香りが、益田の鼻をくすぐるかのように漂っている。
彼女は「もう」と照れ笑いを浮かべながら、
自分を抱きしめている益田の腕にそっと自分の手を添える。
その仕草がまたいとおしくて、彼女の全てがいとおしくて、益田は彼女の髪へと顔をうずめた。
…さすがにここで脱がせると嫌われそうだから…。
そう何度自分に言い聞かせたことだろう。
しかし、愛しい彼女の肌の温もりは、
益田の口付けをまるで求めているかのように、益田を誘い続ける。
それに抗いきれるほど、益田は、自らの理性に自信がなかった。
彼女の首筋に静かな口付けを降り注ぐ。
やわらかな白いうなじが…、益田の口付けを受けてほんのり桜色に染まった。


好きだ…。

このままどこまでも、うずもれていきたい…。



♪♪♪♪

そのとき、益田の耳に嫌な電子音が聞こえた。
益田は思わず顔をしかめる。
彼女とデートするときは、いつも携帯をきっているはずなのに、
今日に限って切るのを忘れていたらしい。
そして今に限って鳴るとは、まったく不運だ。
益田は、左手で彼女を抱いたまま右手で携帯を取り、電話の待ち受け画面を見た。

思わず舌打ちがこぼれそうになった。
「氷室零一」。
こういうときに限って、アイツか…。
益田は、無視しようかとよっぽど考えたけれども、
彼女が、そのまっすぐな瞳で益田を見ているのも分かっていた。
「出ていいよ」と言いたげなみずみずしい瞳は、清らかで、益田の心を鏡のように映し出す。
彼女に変に勘ぐられては、それはそれで更に嫌だ。

益田はあきらめて、電話口に出た。
「俺だ、どうした、今日は応対がいつもより7秒も遅い!」
零一が不機嫌そうな声で、益田に畳み掛けるように言う。
その声は、あまりにも大きくて、彼女の耳にまで届いたようだ。
彼女は、電話の向こうの人物が零一だと知って、失笑している。
益田も、その彼女の微笑みに応えるように、困った表情をして見せた。
「…すまない、零一、今、外にいるんだ。」
「…ああ、それは悪かった。」
零一は、益田が素直に謝ったことと、
彼の外出しているという状況から、大きな声を少し小さくした。
「で、どうした?」
益田は、とにかく先を急がせる。
大観覧車に乗っていられる時間は決まっているのだ。
彼女との時間を零一に取られるのは、本当に、本当に、惜しかった。
「ああ、宿が取れたので、その連絡だ。
また、最終確認のために集まった方がいいと思うのだが。」
このままだと話が長くなりそうだ。
益田は苛々する。
彼女は、益田の腕の中でじっとしながら、外の風景を眺めていた。
水平線が横にくっきりと見える。
青いようで白いようで、それでいて灰色のような微妙な色をした風景…。
大観覧車はもうすぐ頂上に向かう。


これ以上、邪魔されてたまるか。

「悪い、零一。今からトンネルに入るんだ。またあとで連絡するから。」
まるで、車か電車にでも乗っているような口ぶりで、益田はそれだけ言って、さっさと電話を切った。
そして、電源をおとす。
彼女は、そんな益田を見て、苦笑いをしていた。
「いいんですか?益田さん、あとで反省文書かされちゃいますよ。」
「いいんだ。」
益田は軽くそう言って、再び、彼女の身体を両手で抱え込む。
シトラスの香りが先ほどと同じように益田の周りで舞った。

「零一とはまたあとで電話出来るけど、君といられるのは今だけだから。」
益田がさらりとそんなことを真顔で言ったことに、彼女はちょっと照れたのか、顔をうつむけた。
その照れた表情も可愛らしくて、益田は彼女の頬に口付けをする。

益田の髪と彼女の髪がくしゃっと音をたてて、触れ合った。
彼女が、少し目を細めて、益田の方を向く。
そしてそれまで彼女の頬に口付けしていた益田の唇の前に彼女の顔が来る…。

ちゅ…。
彼女からの口付け。
柔らかくて、どこか儚げで幼い口付け…。

それでも益田には充分だった。
自分だけが彼女を求めているような、そんな焦りを、
どこか癒してくれるその口付けに、益田は酔いしれる。
そして、何度も彼女から口付けをもらうたびに、益田はそれを優しく受け止める。
激しく求めるのもいいけれど、こんな風に求められるのもいい…。
何度となく繰り返された口付け…。
二人は、そのまま、お互いの唇を味わい続けた…。


そう、大観覧車の係の人の顔が、横に大きく見えるまで。