純情と欲望の狭間

 思いを寄せている女を脳裏に浮かべてきわどい想像を楽しむのは、罪悪感がある。
 好きだと思う気持ちを織り交ぜて肌を重ねることにより生まれる悦び―何物にも換え難い、体の内側から迸るような興奮は、局部的にはけ口を求める衝動とは異質なものだ。
 好きな女は、妄想で汚すのではなく、この手で蹂躙したい。
 息遣い、瞬き、嬌声、愛撫…。目の前で繰り広げられる彼女の媚態こそ、跡部を激しく高ぶらせるのだ。
 もとより跡部は、メディアで広く流布しているような性的興奮を促す代物を、それ程は好まなかった。
 女に触れたいと感じる若く粘性の強い欲求が生じたなら、彼女と交わればいい。否、無理に下半身で繋がらなくとも、彼女の唇や手で高みへ導かれるだけでも十分であった。恋に没頭している跡部にとっては、彼女は雄の本能を浄化してくれる唯一の清らかな存在といえた。
 けれども会えない時間が長く続くと、悲しい男の性というべきか、鬱々と欲求が積もってゆくのは必然のことであった。それに加えて、同じ年頃の男子が一箇所に集まるとき、欲求を我慢するのは更に難しくなってしまう。

 現下、跡部は中学卒業寸前の、春のJr.選抜に向けて最終調整を行う合宿の真っ最中であった。
 合宿には、関東圏の各中学校から優秀な選手らが参加しており、合宿所では選手のメンタル面を慮って、各々に個室が与えられていた。しかし、食堂、浴場、洗面所などは共用であり、またテレビは談話室にしか置かれていなかった。そのため、読書したり、音楽を楽しんだり、ノートパソコンを持ち込んだりする者はともかく、テレビや付属する機器を使おうとするなら、談話室のそれを使わねばならなかった。
 ところが、誰が持ち込むのかは知らないが、夜にもなれば、談話室は一転してアダルトDVDの鑑賞会と化す。
 その日も、夜の自主トレを終えてシャワーを浴び終えた跡部が、同じく強制的に自主トレにつき合わせていた忍足と部屋へ戻る道すがら、談話室の側を通り過ぎると、談話室は異様な盛り上がりを見せていた。

「うわー、すんごい盛り上がってるなぁ。皆一体どっから調達してくるんやろ。」
 忍足は苦笑を含みながらも、興味津々といった具合に談話室へと視線を向けた。
「下らねぇ」跡部は顔をしかめた。「これだから弱い奴らは…。一体何しに合宿に来てるんだ?」
 テニスに集中できない奴ほど、遊び半分で合宿に参加する。一見傲慢にも見えるが、テニスに対しては、跡部はいたく真摯な態度で取り組んでいた。
「ていうか、跡部、オレらも見ていかん?」
 しかしながら跡部の不機嫌そうな様子などどこ吹く風というように、忍足はにぱっと笑った。
「こういうんは人体の研究やって。オレが思うに、人間の柔軟な動きは相手の次の行動を予測するのにも不可欠や。お前のインサイトにもそりゃもう大いに役立つと思うで〜。」
「馬鹿か。見たいなら一人で見て来い。俺様は興味ない。もう寝る。」
「そうつれないことを言うなや〜。彼女とするときに使える技なんかもあるかもしれんで?」
 忍足は軽口を叩いて、揚々と談話室の中へ入っていった。「忍足、跡部、入りまーす。」

「おー歓迎するよ、忍足君、跡部君。」
 本日のDVD持込者は山吹の千石のようだった。周りには青学の桃城をはじめとして、青学や山吹、不動峰の生徒が群がっていた。立海大付属の連中もちらほら見受けられる。但し、手塚や真田といった所謂「お堅い組」は勿論いない。
 隣の忍足はどことなく楽しそうであった。単にお前がアダルトDVDを見たかっただけだろうが、と忍足を睨みつけて、跡部は呆れたようにため息をついた。
 千石は上機嫌で、「今日は、僕のとっておきのお勧めなんだ〜」と一旦停止していたビデオを再生させた。

 正直、鼻血が出るかと思った。
 千石お勧めのビデオは強烈だった。忍足は「あれって、部屋に帰ったら、皆一斉に抜くんやろな〜」と愉快そうに言っていたが、跡部は笑えなかった。日常の跡部ならば、あんな卑猥で下卑たもの、と軽蔑の一笑に付すこともできるだろうが、何日も彼女と触れ合っていない若い身体には刺激が強すぎた。
 刺激物質が脳内を刺激しているままではいられなかった。彼女の温もりが恋しくて、部屋に戻ると、跡部はすぐさま携帯電話を手に取った。合宿中であるのを気遣って、ここ数日は、彼女はメールしか送ってこない。だがメールでやり取りするだけでは、跡部の方が物足りなく感じてしまう。そのため、跡部はしょっちゅう彼女に電話を掛けていた。今日も彼女からはメールが来ていたが、跡部は迷うことなく発信ボタンを押した。

 ツーコールの後に、彼女が電話に出た。
「はい」「…俺様だ」「うん、跡部」
 応答は、ある程度付き合いを重ねてきた恋人同士だからこそ通じ合う簡単な挨拶から始まる。
 しかし、いつもなら綽然と話を連ねてゆく跡部も、今日はぐるぐると頭の中に渦巻く靄に支配されて、次の言葉が出てこなかった。言葉を失い、跡部は黙り込んだ。
「どうしたの?」ただならぬ跡部の様子に気づいて、彼女が心配そうに声の調子を落とした。「何か嫌なことでもあった?」
「…いや。」
 衝撃の出来事はあったが、特に不快なことがあったとかそういうわけではない。けれどもそれをその通りに説明することもできなくて、跡部はただ口ごもるだけであった。

 彼女の顔が見たい、彼女の様子が知りたい。何かが這い回っているかのように下半身が疼く。
 跡部はおもむろに「…テレビ電話に切り替えろ」と言った。
「は?」彼女は予想外のことに面食らっているようだったが、「…久しぶりに顔が見たい」と切り返した跡部に、照れ笑いで「分かった」と返した。

「あとべ〜」テレビ電話に切り替えた彼女が、画面の向こう側から手を振る。
「あぁ」ぶっきらぼうに跡部は頷いた。
 彼女はぴったりとしたV字の長袖のカットソーを着ていた。比較的大きい胸の谷間がほんのり陰影となっている。跡部の背中にぞくぞくっと戦慄が走った。
 先ほど見た下卑た女と彼女を、一緒くたになど見たくないのに、同じ空気を吸っていないからだろうか、画面の向こう側にいる彼女はやけに跡部を誘っているように見えた。思わず口元を押さえてしまう。
「あとべ〜。どうしたのよ〜?」
 いつもと違う跡部の様子を不審に思ったらしい。彼女が怪訝そうに首を傾げた。だが彼女が首を動かしたら動かしたで、白い首筋が蛍光灯の光を受けてチラチラと輝き、跡部の目を釘付けにする。あのうなじに口付けて、思うままに絡みつけたらどんなにいいだろう。募るばかりの欲求を必死に抑圧して、跡部は「いや」と無理やり笑みを作った。

 胸がきつく締め付けられて息もできないくらい彼女を好きだと思うのに、彼女の体をむちゃくちゃに抱いて壊したい気持ちも確実に存在している。
 今、わざわざテレビ電話で彼女の姿を確かめているのも、きっと、電話を切った後、強張っている下半身を慰めるときに、彼女の幻影が欲しいからなのだ。
 汚らわしいものに清らかな彼女を混ぜ込んで、何とか自分を騙そうとしている。
 跡部は、忍足が小馬鹿にして笑った奴らよりも余程自分の方が汚らわしい気がした。

 だが幸か不幸か、跡部は頭のいい人間であった。気が引けることも、自分に都合のいい解釈に捻じ曲げるなど朝飯前だ。
 跡部は傲岸不遜な態度で彼女の名前を呼び、半ば場当たり的に「キスしてくれ」と言った。
「はぁ!?」
 突然の跡部の発言に、彼女は頓狂な声をあげた。「何言ってんの!?馬鹿じゃないの!?」
「別にいいだろ。脱げって言ってるわけじゃない」、本当はこの場で全部脱いで身体をくまなく見せて欲しいところなのだが、それを言えばさすがに嫌われかねないことは跡部も自覚している。
「…お前のキスする顔が見たい。」
「え、えぇ〜。」
 彼女は眉を曇らせたが、跡部の下半身の事情は知らない。特別淫らなことを要求されているわけでもない、キスくらいならいいか、跡部も案外可愛いことを言うなぁ、などという程度にしか考えなかった。暫しの躊躇の後、彼女は瞳を閉じ、画面に向かいプルプルにはちきれんばかりの唇を突き出して、ちゅっと軽やかな音を奏でた。

 そのように恥じらいを含んだささやかなポーズでも、逸る男心の火を煽るには十分であった。
 堪らず跡部は下半身に手を伸ばした。彼女に気づかれないように、猛るそれにそっと触れる。そして埋もれてゆける湿地を求めていきり立っている己を宥めるようにゆっくりと握った。
「…これでいい?」恥ずかしそうに口をすぼめる彼女に、跡部は「あぁ」とたどたどしく微笑んだ。胸が引っ張られるように苦しい。その一方で下半身の男性部位はといえば火傷を負ったように痛む。
「……考えてみれば、お前と随分会ってない気がする。」
 彼女の視点からはこちらの胸部より下が見えないのをいいことに、注意深く跡部は自らを扱き始めた。あまりの快楽に、声が漏れそうになる。
「もう四日だもんね。わたしも跡部に会いたいな。」
「会いたいだけかよ。」
「は?会えるだけでも十分でしょー?」
「それだけで足りるか。」
「んもー。あとべのえっち。すーぐ、キスとかエッチとかしたがるんだから。」
 彼女が苦笑を浮かべる。エッチという言葉に跡部の心臓が大きく鼓動を打ち、根茎部には更に多くの血流が注ぎ込まれた。
「悪い…かよ。」
 息が切れそうなのを懸命にごまかして、跡部は眉間に皺を寄せた。

 彼女がもし隣にいたなら、このまま足を広げさせ、激しく火を吹く尤物を打ち込むところだ。四つんばいにしたり、騎乗の姿勢を取らせたり、思いつく限りの淫猥な格好をさせて、息が絶え絶えになるくらい鳴かせたいと願うだろう。
 跡部は、彼女の潤んだ瞳や艶やかな唇に目を澄ましながら、自らの記憶の中にある彼女の濡れそぼった茂みを思い浮かべた。彼女のお喋りに付き合いつつ、テニスで鍛えた手首のスナップをきかせて、跡部は悦楽に向かって疾走する。

 まったくの想像だけで彼女を犯すと、後ろめたさが生まれる。汚らわしい妄想に彼女という恋人を利用しているようで、罪悪感に苛まれる。
 でも、直接触れることができなくても、彼女を見つめて想像するのなら、悪くないだろう?彼女の声を聞き、記憶の欠片を集めて空想を紡ぐのなら、恋慕が行き着く果ての幻想を求めただけと言うこともできるだろう?
 女が欲しいから彼女と付き合っているわけじゃない。けれど、好きな相手だからこそ全て欲しいと欲張る我侭も生じるのだ。

 巧みに摩擦を重ね、やがて跡部は絶頂を極めた。右の掌に生温かくどろっとしたものがこびりつく。
 会話に応じながらひそやかに自慰をやり遂げた完璧なポーカーフェイスに、彼女の方は全く気づいていないようであった。
 だが、彼女はそれでいいのだ。跡部の穢れた欲望なんて、彼女は何も知らなくていい。
 彼女と共有する甘い空間で、跡部は彼女を抱く至福の時間を得る。彼女のいない場所で彼女を求めても、そこにあるのは悦びではなく、積もったものが抜けただけの刹那の快感に過ぎない。跡部が本当に欲しいのはそのようなものではない。

 合宿から戻ったら、飽きるまでひたすら抱き合いたい。
 跡部の強引で執拗な性欲に、彼女は戸惑うだろう。呆れるだろう。それでも、恐らくは跡部の煮えたぎる欲求を、彼女なら受け容れてくれる。跡部と彼女の間にはお互いを愛しいと思うこころがあって、二人はこころが架ける熱に溶け合って相手を求めるのだから。
「早く…お前に会いたい。」
 跡部は、ひたむきに彼女を思う純情と千々に入り乱れる欲望の狭間で、静かに息を整えた。