You've Got Pets!(前編)
嵐×主×新

 薄くグレーがかった雲がベルトコンベアーに乗せられたように流れる空は、橙色に濡れていた。
 日中は形も色も鮮やかに視認できる建物が、徐々にモノトーンとシルエットで彩られていくその様を、新名はぼんやりと眺めていた。
 本日のお出かけも無事終了、彼女を家まで送り届けた新名の斜め一歩前を、同じく帰路を行く先輩の嵐が歩んでいる。
 嵐は世の中の流行など全く意に介さないタイプだが、着用しているジップアップのパーカーは、知る人ぞ知るメーカーのものだ。モデルのような美形のスポーツ選手が好んで着ているのを、雑誌で見たことがある。本人はお洒落をしているつもりなどないのだろうが、彼もまた今日の外出に、意気を込めて挑んだのだろう。新名とおんなじだ。
「なんだ」
 新名の視線に気づいたらしい、嵐がつと振り返った。
 ちらっとしか見ていないのに、すぐさま視線に気づく辺りが、マジパネェ。本当に、この人は第六感を張り巡らせて生きているんじゃないだろうか。
「何でもねーっすよ」
 新名が軽い感じで答えたので、嵐はそのまま前を向いた。
 ちょっとした気の緩みも、嵐にはすぐに見抜かれてしまう気がする。息もつけない、って、こういうことを言うんだろうな。あー、ヤダヤダ。新名は首を左右に振った。
 その直後、嵐が再度振り返った。
「おい」
「うわっ」
 気を緩められないと思った傍から気を緩めてしまった新名を嘲笑うかのように、嵐が声を掛けてきた。
 新名は激しく動揺したが、嵐本人は何故新名が驚いたのか分からないといった表情をした。不思議そうに「変なヤツ」と首を傾げて、嵐は口を切った。
「次、どうする?」
「は?次?」
 …あぁ、三人でのお出かけのことね。
 嵐さんの言葉の端々を拾って、想像力をフルに動かすオレ。コミュニケーション力にもバッチシ長けてる。
 自己満足の中で頷きながら、新名は答えた。
「オレは別にどこでも?てか、逆に、嵐さん、行きたいとこあったりすんの?」
 嵐が行きたいと言いそうな場所といったら、動物園か、温水プールか、はたまた水族館か。
 遊園地は今日行ったばかりだから、まぁ、二回連続で行くということはないだろう。あ、もしかしてはばたき城に行きたいなんて言い出すんじゃないだろうな。
 新名は頭の中で忙しく独りごとを繰り広げた。
「出かける場所はどこだっていい。ただ泊りがけとなると、色々大変だろ。俺ん家か、おまえん家か、それとも別の場所か」
「はっ?」
 想像の斜め上をぶっ飛んでいった嵐の発言に、新名は目をひん剥いた。
「あ、嵐さん?な、何の話してマスか?」
「ん?何って、泊りの話だろ?」
「泊りって?合宿でもするんスか?」
「まぁ、そうだな。ミーティングを兼ねた泊りでもいいな、場合によっちゃ。ていうか、おまえが言いだしっぺだろ?」
「は?何のこと?」
「……帰したくねぇって」
 嵐がそこまで言ったところで、漸く新名は合点がいった。
 その話が出たのはつい先ほどのことであった。
 三人デートの帰り際、いつものように彼女の家までのんびりと歩いているとき、これまたいつものように彼女と手を繋いだり腕を組んだりしている内に、彼女のことがどうしようもなく愛おしくなって、新名、嵐二人ともに彼女を「帰したくない」気持ちになった。
 無論、実際にそんなことができるわけはなく、結果、こうやってちゃんと彼女を家まで送り、それぞれ帰路についているわけであるが。
 だが、よもや嵐がそれを真剣に考えていたとは思わなかった。しかも―こう言っては失礼かもしれないが―真顔も真顔で。
「オレんとこは弟がうるさいし、母ちゃんは後からあれこれと聞いてきて面倒だから……、無理っす」
「俺ん家も、ミーティング兼ねるんなら、ちょっとな」
 嵐の声のトーンが少し暗くなった。
 そういえば、新名は彼女から聞かされたことがあった。
 嵐は、中学卒業と同時に柔道をやめるよう、両親から言われたのだとか。嵐がはばたき学園で柔道部を立ち上げたことも、柔道そのものをまだ続けていることも、両親は知らないのだそうだ。
 新名は柔道一筋の嵐しか知らないから、何をどう考えたら、嵐から柔道を取り上げようという気になるのか理解できなかったが、家庭にはそれぞれ事情というものがある。
 それを思えば、嵐の家に上がり込むのも気が引けた。仕方ないといったように、新名は肩をすくめた。
「なら、あのコんトコは?柔道部のミーティングでーすって言えば、案外泊めてくれたりして」
「あいつん家か……。でも、親御さんは、あんましいい顔しねぇと思うぞ」
「ま、ね……」
 盛りのついた犬猫二匹を家に連れ込むなんて、新名が可愛い娘を持つ親だとしたら、断固反対する。
 ミーティングだけで終わるのならまだいいが、それだけでは終わらない、きっと。
 特に、今新名の目の前を歩いている、柴犬の面を被った熊!泊りだなんて、「あれ」を前提に考えている可能性、大だ。
 新名はじっとりと嵐をねめつけた。
「なんだよ」
 嵐はまたしても新名の視線に気づき、怪訝そうに振り返った。
「なんでもありません……」
 けれど、こっそり睨むことも許されない。世の中、いろいろ不条理だ。新名は夕焼け空に向かって、ひとりごちた。

 しかしながら、事態は思いも寄らぬ方向へ進んだ。
 コミュニケーションは直球に限ると言わんばかりに、嵐は、次の日早速彼女に「おまえん家で泊りがけのミーティングをさせてくれ」と申し出たのである。
 そして、新名が目を丸く見開いている間に、彼女は二つ返事で「いいよ」と答えた。
「実はね、土曜日から、お父さんとお母さん、2泊3日で海外旅行に行っちゃうんだ。一人で留守番なんて寂しいなぁと思ってたところなの。丁度いいね!」
 にっこりと笑った彼女に、新名は「“丁度いいね”じゃありません!若くて可愛い女の子が、両親の不在時に男を家へ連れ込むんじゃない!そもそも両親も、若くて可愛い娘を一人置いて出かけるんじゃない!」と何度説教しようと思ったことやら。
 しかし、嵐の方はというと、いけしゃあしゃあと「じゃあ、飯も三人分頼む」などと言っている。
 自由奔放な先輩二人相手に、新名の頭は割れんばかりに痛んだ。
 だが、同時にやっぱりあらぬ期待もしてしまうわけで。
 ミーティングを兼ねているとはいえ、彼女の家にお邪魔できるのだ。彼女の部屋、彼女の寝顔、彼女の寝巻―。頭の中は一気に桃色に染め上げられた。
(そりゃそうでしょ、女のコとして「いいな」と思っている先輩の部屋に入ることができるわけだから―、いや、熊は要注意しなきゃだけど!)

 そうして、めでたく、柔道部第一回目のお泊り会が開催された。
 柔道部のプチ合宿をしたいと彼女が両親に説明してくれていたおかげもあって、土曜日の夕方、嵐と新名が、旅行に出掛ける直前であった彼女の両親に挨拶したところ、彼女の母親だけでなく彼女の父親も快く二人を迎え入れてくれた。
 言うまでもなく、嵐と新名の寝床は、二階にある彼女の部屋とは別の、一階の客間の和室に用意されていた。お客様用の布団が、二人分部屋の端に積まれていた。
 それにしても、こういうとき、嵐は頼りになると思う。
 自分で言うのも何だが、ちょっと軽そうに見える新名よりも、そんじょそこらの大人なんかより余程どっしりしている嵐が礼儀正しく挨拶をする方が、彼女の両親だって心強いはずだ。
 ただ、幸いなことに、新名も第一印象は悪くなかったようだ。彼女の両親は、嵐と新名二人に「娘をよろしく」と言うと、仲良さそうに出かけていった。

 彼女の母親は、彼女と食べ盛りである男子二人のために、唐揚げの下ごしらえをしてくれていた。
「お母さんの唐揚げ、美味しいんだよ」
 そう言って、彼女が手際よく揚げていく唐揚げは、確かに半端なく美味しかった。
 それに、エプロンを着けてコンロの前に立つ彼女を見られるなんて、幸せすぎる。
 もしも、彼女と結婚なんてしちゃったら、こんな幸せな日が毎日続くんだろうな、なんて考えてしまう。
 新名の隣に座っている嵐も、同様のことを考えていたに違いない。新名と乱取の稽古をするときとは違って、嵐が彼女を見つめるときの眼差しはとても優しかった。
 あぁ、この人も彼女のことを好きなんだなぁ、などと、気づかなくてもいいことに気づいてしまった自分がいたりして。
 不毛な関係だよな。
 嵐にも彼女にも胸の内を気づかれないように、新名は彼女が淹れてくれたお茶をぐいっと飲み干した。

 食後、先に風呂場へ向かったのは、嵐だった。
 新名を客間の和室に迎えた彼女は、嵐と新名の布団を敷き始めた。
「それにしても、よくオレらを泊めてくれる気になったね?アンタの両親」
「だって柔道部の合宿だもの。お父さんにもお母さんにも、柔道同好会の頃からいろんな話をしてきたから、二人とも、応援してくれてるんだよ。嵐くんやニーナのこともいっぱいお話ししてるんだよ?お父さんもお母さんもね、わたしの他に、男の子が欲しかったらしいから、きっと息子ができたみたいで嬉しいんだと思う」
「ふーん」
 彼女は上機嫌だった。きっと、本当に「合宿」をやっている気持ちでいるんだろう。色々な妄想を抱えている高校生男子の脳裏なんて、予想だにしないで。
 新名は口の両端を持ち上げて、言った。
「オレ、アンタん家の息子になってもいいぜ?」
「えっ?」
「だって、新名家には立派な次男坊がいるから。オレが養子にいっちゃっても、ノー・プロブレム。オレ、アンタんとこの婿養子になっちゃおうかな?」
 彼女はきょとんとして、それから次の瞬間、からからと笑い始めた。
「ニーナったら、もう!」
「あーっ、本気にしてくれてないでショ?」
 新名は、ぷぅと頬を膨らませた。
「アンタのそういうとこ、マジでズリイ。そうやってすぐ笑い話に持ってくんだから……」
「そんなことないよ?ありがと。ニーナは優しいね?」
 布団を敷き終えた彼女は新名の方に向き直って、よしよしと新名の頭を撫でた。
 新名の髪に触れる彼女の手つきは、いつも優しい。新名が髪型に拘っていることを知っているので、髪型が崩れないようにそっと触れてくるのだ。
 可愛らしく微笑む彼女を前にして、新名の胸は自然と高鳴った。
「なぁ」、彼女に話しかける声は、緊張と興奮で僅かに震えていた。
 今なら、一度、どうしても聞いておきたかったことが聞ける気がした。
「アンタさ……、オレと、嵐さんと、どっちが好き?」
「えっ?」
 彼女は驚いた顔をした。さもありなん、突然こんな話を振られたら、誰だって吃驚するに違いない。
「もし、嵐さんもオレも、どっちともアンタんとこの婿養子に入りたいって言ったら、アンタはどっちを選ぶ?」
「えぇ?ニーナと嵐くんと?うぅーん、なんだか想像できないなぁ……」
 些か性急だったかもしれない。だが意外にも、彼女は真面目に考え込んでくれている。ここで「じゃあいいや」と引き下がるのは勿体ない。新名は、もうちょっとだけ頑張ることにした。
「そんな深刻に考えなくていいからさ、どっちか選んでよ」
「うーんうーん、困ったなぁ……。どっちかって言われても……」、散々悩んだ結果、彼女は新名に訊き返した。
「ね、どっちもじゃダメなの?」
 我儘な返球に、新名は思わず「ダメでしょ!」と力んでしまった。
「ちょっ、アンタ、何さりげなく一妻多夫制推進しちゃってんの!?」
「だって、動物に例えるなら、ニーナは猫みたいなもので、嵐くんは犬みたいなものでしょ?犬と猫のどっちを飼いたい?って言われても、どっちも可愛いんだもん。困っちゃうよ」
 彼女はにこにことして答えた。
 犬と猫。そう例えられることはこれまでも少なからずあったので、それはそれでよしとしよう。問題は、彼女の認識において、嵐も新名も「動物」の範疇に含まれているということだ。まだ「男」ではない。新名は落胆してため息をついた。
 そのときであった。
 新名の背後に、凄まじい殺気が生じた。
 新名が柔道を始めて一番最初に身についたのは、「人の気配に敏感になる」能力だった。
 振り返る間もなく、上方から声が落ちてくる。
「何、マネージャーを困らせてんだ、新名」
 出た。新名は息をのんで、振り向いた。
「こ、困らせてなんかねーよ!つーか嵐さん、早ぇ!早すぎっしょ!烏の行水かよ!」
「そんなことねーよ。どうもな、いいお湯だった」
 新名に対する表情と、彼女に対する表情はあからさまに違った。意図的にやっているわけではないのだろうから、始末に終えない。
 嵐は胡坐をかくと、首を左右に捻った。
「悪ぃ、マッサージ頼む」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
 いつもと同じ、何だか妙に所帯じみたやり取りを展開して、彼女が嵐のマッサージを始めた。
 慣れた手つきで嵐のマッサージをしながら、彼女は子供に語りかけるように新名に言った。
「ほら、次、ニーナだよ。早くお風呂入っておいで」
「あーあ、また子供扱いしてくれちゃって」
 新名は口を尖らせて、立ちあがった。
「じゃ、新名旬平、続いて、湯殿いただきまーす」
 やけっぱちになって叫んでみる。
 だがそんな新名すら可愛いといったように、彼女は「ふふふ、行ってらっしゃい」と言って、新名を送りだした。


→後編へ続く
るいあさんへ
 (2010/10/2 Asa)