藍と墨のあいだ(1)
紺野×主×設楽 (GS3)

 三人寄れば文殊の知恵、とはよく言ったものだ。
 三人が同じ目標のために討論し、答えを見つけ出そうとするなら、三という数字は確かに価値あるものだろう。
 同調あるいは反発、そして妥協―二者であれば、その間で話をまとめるのはさほど難しくはない。だが二人の討論が熱を帯びれば帯びるほど、それは感情的になり、客観性を欠いていく。
 だからこそ、議論において第三者の存在には意味がある。第三者には感情に流されない、ストッパーとしての役割を期待できる。
 しかしそれはすなわち、三人寄れば一人がはみ出るということでもある。
 はみ出るのは誰だろう?客観的に二人を見る第三者か。それとも議論に花を咲かせる二人のうちのいずれかか。第三者の話に、もしも二人のうちいずれか一人が関心を抱けば、もう一人は置いてけぼりになるだろう。
 三人は難しい。
 そんなことは小さいときからとうに知っていた。
 紺野玉緒、友人の尽、それから日比野歩。かつての仲良し三人組は、全員兄弟の年の低い方であったから、幼いながらもそれぞれ適度に人間関係に「バリア」を張ることを知っていた。そうやって互いの距離感を保つことによって親しくできていた節があった。

「どうしたんですか、紺野先輩?ぼーっとして」
 前方から声を掛けられ、ハッとして頭を上げる。
 視線の先には、かつての仲間の二人ではない二人がいた。
 同じ学年の同級生である設楽聖司、そして一つ下の学年で同じ生徒会執行部に所属している彼女。
 紺野と同じ帰路についていた二人は、不思議そうに紺野を見ていた。
「また難しいことでも考えていたんですか?さっき先輩が格闘していた物理の問題とか?」
 彼女がにっこりと笑った。彼女の笑った顔は可憐で愛らしい。紺野もつられて笑った。
「まさか。まぁ、考え事と言えば考え事かもしれないけど」
「よく疲れないな、そんなに考え事ばかりして」
 憎まれ口を叩いたのは設楽だった。資産家の御曹司である彼は、普段は運転手に校門まで迎えにこさせて、車で帰宅するのだが、彼女が声を掛けるときだけはきまって彼女の申し出に応じた。
 今日も、放課後の時間を使って、図書室で勉強でもして帰ろうかというところに、彼女が設楽を誘った。
 放課後、図書室、勉強、という組み合わせに、まさか設楽が応じるとは思わなかった。設楽は彼女を好いている。だから彼女と紺野の二人が一緒にいることが気に入らなかったに違いない。
 帰路についている今だって、甘いものの話で盛り上がっている設楽と彼女は、紺野の少し前を並んで歩いていた。設楽は、紺野に彼女を近づけたくないのだ。紺野がどういう気持ちであるかは、設楽にはどうだっていいのだろう。三人いると、その内の一人に嫉妬という感情が生まれることがある。それは「三」という数字に馴染みがない者には分からないものなのだ。
 設楽の憎まれ口に、彼女は困ったように微笑んだ。
「それにしても、ここのところ陽が延びてきたと思ってましたけど……、今日は暗くなるのが早いですね?」
 空を仰ぐと、確かに闇に浸された雲は低く垂れ込めて、じっと三人を見下ろしている。厚い雲の群れは、東からの風を受けて不安定に流されていた。
「確かに。この調子だと一雨来るかもしれないな。急ごうか」
「雨だと?」
 設楽の表情が曇った。
「そんなこと、運転手は言ってなかったぞ」
「今日は風も強いし、雨が降ってきてもおかしくないっていうだけだよ。春の天気は変わりやすいから」
「そうですよ。天気予報だっていつも当たるわけじゃないのに」
 ね、と、彼女が首を傾けて紺野の方を向いた。
 その仕草がとても可愛かったものだから、紺野の表情は綻んだが、設楽の表情は強張った。
「うるさい!なんなんだ、おまえたち、二人揃って。おまえたちが何かやったんじゃないのか」
 設楽は顎をしゃくって空を睨みつけた。
 まさか紺野と彼女が雨乞いしたとでも思っているのだろうか。紺野は呆れた顔をした。
「相手は自然だぞ。そんなことできるわけないだろ」
「相変わらず、設楽先輩の発想は斜め前にぶっ飛んでますね……」
「おまえらに言われたくない!」
 設楽は思いっきりしかめっ面をして、制服のジャケットの内側から携帯電話を取り出した。
「もういい。雨が降りそうなら、運転手を呼ぶまでだ」
「わぁ!乗せていってくれるんですか?」
「誰がだ。雨を降らした張本人は歩いて帰れ」
「まだ言ってるのか……」
 そんな風にわいわい言いながら歩いていると、やはりというべきか、ポツポツと雨が降ってきた。
 最初は小さな点だった雨粒が、繋がっていつしか一つの線になり、数秒もしない内にそれらの数は一気に膨れ上がった。
「走ろう」、紺野は鞄を雨よけにして、二人に声を掛けた。
 目指す場所は、設楽が携帯電話で運転手に指定していた商店街の端だ。そこまで行けば、ひとまず設楽は運転手に拾ってもらえるだろう。
「おい、紺野!なんで走っ……」
「本当に降って来た!」
 それぞれ、追われるようにして走り始める。
 紺野は傘代わりに鞄を頭上に掲げていたが、肩から背中にかけては、案の定、冷たい水が染みてきた。
 彼女は大丈夫だろうかと思って振り返ると、彼女は紺野よりも更に濡れていた。そもそも女子の鞄というものは、より雨よけには向いていない。
 今は気温の差が激しい春先、このままだと彼女は確実に風邪を引いてしまうだろう。商店街に入ってしまえば、アーケードで雨から守ってもらえるだろうが、商店街まではまだ少し距離がある。
 どうしたものか躊躇った瞬間、紺野の目に電話ボックスが飛び込んできた。幸い、誰も入っていない。紺野は彼女に向かって、「あそこだ」と声を掛けた。
「あの電話ボックスで雨宿りしよう。急いで!」
「は、はい!」
 コンクリートの道路に落ちた雨の滴を、駆ける三人の靴が弾いていく。水の跳ねる音が軽快に響き渡ったその数秒後、辺りは規則正しい降雨の音のみが広がった。

 公衆電話のボックスは、一人入るだけでもかなり圧迫感のある場所だ。
 そんなところに三人入れば、当然のことだが、ぎゅうぎゅう詰めになってしまう。扉口の足下から入ってくる風で冷えないように、紺野は彼女を先に入れて奥へと押しやった。
「大丈夫?結構降られたね。寒くない?」
「はい……、っくちゅ!」
「無理しないで」
 紺野はスラックスのポケットからハンカチを取り出し、彼女に手渡した。
「使って」
「あ、でも、ハンカチなら私も持ってますし……」
「いいんだ。僕より君の方がたくさん濡れてしまったみたいだ。君の分は後から使うといい」
「お優しいことで」
 紺野の隣から、こちらも濡れてシルクのシャツが透けた設楽の皮肉が飛んできた。
「紺野は紳士的だな」
「紳士は設楽の得意分野だろ」
 子供みたいに突っかかってくる人間には、いちいち言葉を返すのも面倒だ。
 しかし、どうして設楽が突っかかってくるのか、紺野はその理由を得心していた。何となく流すことができなくて、紺野も少し意地悪い言葉を返してみる。
「それより、設楽、運転手さんはいいのか?もう商店街に到着した頃じゃないか?」
 早く帰れと言わんばかりの紺野の口ぶりに、設楽はムッとした。
「今出ていったらまた雨に濡れるだろ。運転手なら車の中で待たせておけばいい」
 そう言うと、設楽はおもむろに彼女の方に向き直った。鞄を公衆電話の上に置き、空いた両手で彼女の腰にそっと手を触れる。
「寒い」
「えっ?あ、そうですね……」
 紺野のハンカチで顔を拭いていた彼女は、設楽の突然の行動に驚きはしたものの、抵抗はしなかった。どうしようといった顔で、彼女は紺野に視線を送った。
「別に、隠す必要ないだろ」
 設楽は綽々として言った。彼女の濡れた髪に顔を埋めるようにして、彼女の体を抱き寄せた。そのいかにも慣れた雰囲気に、薄々勘付いてはいたけれど、いい気はしない。紺野の眉間に皺が寄った。
「隠さなくても気にはしないけど」
 紺野は肩をすくめてから、据わった眼で設楽を見返した。
「今日はもう一人いるわけだし、そういうのはまた別の機会にしてくれないかな」

 紺野がそうであるように、設楽も彼女に思いを寄せていた。
 恐らくは二人とも、約一年前、彼女が入学してきた当初から、彼女に惹かれていた。
 生徒会執行部に入部してきた彼女の第一印象は「おっとりしているが愛くるしい感じ」で、すぐさま周囲の人の心を引きつけた。真面目で柔和な彼女は、一年生なのに皆のお姉さんであるかのように愛された。
 設楽は音楽室でピアノを弾いていたときに音楽室を覗き込んだ彼女と出くわしたそうだが、同様に愛らしい彼女に好意を抱いたのだろう。なかなか人を寄せ付けない設楽に気兼ねなく話しかけている彼女と、満更でもなさそうだった設楽を見かけたときは、さすがの紺野も驚いたものである。
 あまりに二人が親しげだったから、ある日の放課後、生徒会執行部の部活動を終えた後、紺野は彼女に尋ねた。
「君は設楽のことが好き?」
 彼女は一瞬吃驚した顔をしたが、にこやかに頷いた。
「はい。優しくて、お茶目な人だと思います。年上の先輩なのに親しみやすいっていうか。先輩ですけどとても近い感じがします」
「そうか。いいね、そういうの。羨ましいよ。僕はそういう風に言ってもらえることってないから」
 彼女は目を瞠った。
「そんなことないですよ!そりゃあ、紺野先輩は生徒会長ですし、近しいって感じじゃないかもしれないですけど……。わたし、紺野先輩は凄いと思います。尊敬してます!」
「そう?嬉しいな。ありがとう」
 彼女に一生懸命持ち上げてもらって、嫌な気はしなかった。紺野は微笑んで返した。
 けれど、そのとき更に掘り下げて訊いておけばよかった。
「僕と設楽のどっちが好き?」と。
 訊けなかったのは、彼女の放った「尊敬」という言葉が自尊心をくすぐったからだろうか。あるいは答えを聞くのが嫌だったからか。
 もしくは、設楽と、他の誰をも寄せ付けない設楽が唯一心を開いているように見える彼女との関係を、邪推しているように見えたら格好悪いと思ったからか。
 それから間もなくして、紺野は、毎週のように彼女が設楽にデートに誘われていることを知った。
 発せなかった問いは淀み、胸の中に静かに溜まっていった。煙草の煙が肺を黒く染めていくように、飲み込んでしまった質問は紺野の胸を汚した。
 彼女は、設楽だけでなく紺野にも好意を持ってくれていたから、時には三人で会う機会もあった。今日のように、放課後の勉強タイムを設けたり、帰り道にお茶して帰ったり。だが部活動が同じであるちょっと親しい「先輩後輩」と、一個人として親しい「先輩後輩」の違いは、紺野が想像していたよりも大きかった。彼女はそういう気配を出さないが、設楽の方は割とあからさまだった。紺野の面前で時折彼女とくっついて見せる設楽は、先輩後輩の境界線を越えて彼女に近づくなと言っているかのようであった。
 そういうの、イラッとする。
 設楽が友達に恵まれない理由がよく分かる。普段はつんけんしているくせに、自分が気持ちを注げるものについては子供のように夢中になって、それに近づこうとするものに牙を剥く。そんな人間と付き合うのは、面倒だ。人はそれほど他人に興味を持つ生き物じゃない。

「お邪魔なら先に帰ろうか」
 紺野は冷たく言い放った。
 紺野の目がしらけた様子であるのを見て、慌てたのは彼女だった。
「そんな!こんな雨の中、傘も差さずに帰ったら、先輩、風邪を引いちゃいます!」
 紺野は設楽に視線を移した。設楽は不機嫌そうな顔をしていた。彼女が紺野を庇ったこと、それから設楽自身もそこまでして追い出したいわけではなかったのに紺野が棘のある言い方をしたのが癪に障ったのだろう。
「じゃあ、もう少しここにいさせてもらおうかな」
 紺野は彼女に向かってにっこりとした。
 紺野に触れないように設楽は彼女を抱き寄せていたが、狭い電話ボックスの中では必然的に体が触れた。雨の雫で湿っているとはいえ、彼女の体温は温かかった。
 制服が濡れたとき特有の石油の匂いと、コロンかスタイリング剤か、彼女からくゆる香りが入り混じって、鼻をくすぐる。
 この柔らかい、熱く胸を締め付ける存在に、設楽はその指で一体何度触れたのだろう?どのように、どこまで知っているのだろう?
 問いかけてはならない問いほど、息苦しく、紺野の思考を奪い取っていった。
 

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ぼけらっこさんへ
 (2011/4/3 Asa)