藍と墨のあいだ(3)
紺野×主×設楽 (GS3)

 紺野が設楽家の邸宅を訪れたのは、その日が初めてであった。
 雨は小降りになったものの、空の色はまだ墨汁を薄く伸ばしたような色をしている。
 そんな曇った空の下でも、設楽家の屋敷は十分様になっていた。外装は言うまでもなく、シルエット自体が壮麗なのだ。
 大きな邸宅を見上げてみたところで、羨望を抱いたり、自分自身と比較して僻んだり、そういった感情は不思議と湧かない。ただ、彼女が何度この屋敷に足を踏み入れたのか、それを考えると、低く垂れこめる雲が背中にのしかかっているかのごとく圧迫感を覚え、息苦しくなる。

 紺野と彼女が館の中へ入ると、出迎えに現れた使用人の女性が丁寧に頭を下げ、シャワールームへ案内する旨を申し出た。
 恐らくは事情を知った運転手があらかじめ連絡を入れておいてくれたのだろう。紺野はタオルを借りることができればそれで良いと思っていたが、彼女がほっとしたような嬉しそうな顔をしたのを見て、折角の好意を受け取るのも良いかもしれないという気持ちになった。
「じゃあ、後でな」
 使用人に促されて歩き始めた紺野と彼女を、後方から設楽の声が送り出した。
 彼女は、はい、と快活に返事をしたが、彼女の後ろを歩いていた紺野はつと違和感を覚えた。背後を振り返ってみると、設楽は既に紺野たちに背を向け、正面の広い階段を上っているところであった。
「紺野先輩?」
 紺野が立ち止まったことに気付き、彼女も振り向いた。
「どうかしましたか?」
「あぁ、いや」
 紺野は慌てて、彼女がいる場所まで進み寄った。
「設楽は一緒に来ないのかと思って」
 と、そこまで言って、紺野は何故設楽が紺野や彼女と別行動を取るのか、思い至った。
 設楽の家系は、何人もの使用人を抱えている上流階級だ。使用人は勿論、来客が使う浴室も家の者と同じであるはずがない。目の前の使用人が紺野たちを案内しようとしている場所はゲスト用のシャワールーム、設楽が向かっているのは家の者が普段使用しているバスルーム、それぞれ異なって当然である。
 紺野がその答えに辿りついたのと同時に、使用人の女性が微笑んで言った。
「お客様用のシャワールームがございますので、聖司様とは別にご案内致します」
「……ですよね。ここが設楽邸であることをうっかり忘れていました」
 紺野ははにかんで返し、使用人の後に続き再び歩き始めた。
 紺野の隣で、彼女はくすくすと笑った。
「紺野先輩がうっかりしちゃうのも分かる気がします。設楽先輩のお家ってすごく大きいですもんね」
「本当だよ。ただ大きいだけじゃなくて中も立派だからね。一流ホテルにでも迷い込んだ気分だ」
「そんな感じがしますよね。慣れるのに時間が掛かるっていうか」
「え?」
 聞き間違いかと思ったが、聞き返して、紺野はあぁそうかと得心した。重石が胃を押さえつけるような痛みに気付かない振りをして、紺野は「そうだよね」と淡々と続けた。
「僕は初めてだけど、君は、この屋敷、初めてじゃないんだよね?ごめん。やっぱり僕はお邪魔だったよな」
 冷静を装ったつもりの発言は、紺野の唇を離れてみるとひどく冷たく、和やかだった雰囲気は一瞬にして凍てついた。
「あ、あの!そんな……、そういうつもりじゃ……」
 彼女のまごついた声が、彼女の胸の内の動揺を告げている。
 知らなければ知らないままでいられたものも、一度気がついてしまうと、あっという間に全体が見えてしまう。
 彼女と設楽の関係―、勘付いてはいたけれど、電話ボックスの中で絡み合う二人を目の当たりにした後では、それはより明白な事実として紺野の前に突き出された。
「こっちこそごめん。そういう意味じゃないから」
 どういう意味じゃないというのか、自分でも分からない言葉で曖昧に濁して、紺野は会話をぶった切った。
 まるで体の中にブラックホールを飼っているかのようだ。重々しい気分は、それ自体が重力を帯び、光も音も、何もかも巻きこみながら沈んでゆく。
 現実は現実だ。彼女に当たるつもりなど毛頭なかった分、できるならば自分の存在も同様にそのブラックホールの中にぶち込んでしまいたい気になった。
 それ以上何かを言うこともできないまま、数分後には、二人はゲスト用のシャワールームへ到着した。
「こちらが男性用、こちらが女性用でございます」
 使用人は手前の入り口、それから奥の入り口を右の手で示した。
「使用後は、室内にございます内線のボタンを押して下さいませ。またお迎えに参ります」
「どうもありがとうございます」
 紺野は簡潔に礼を言い、男性用のシャワールームの扉のノブに手を掛けた。
 まだ沈鬱としていたが、とりあえずこの重々しい空気から逃れられるだけでも有難い。熱いシャワーを浴びれば、気持ちも解れ、またいつもどおり彼女に接することができるだろう。
 彼女の方は何か言いたげで、扉の取っ手に手を掛けるのを躊躇しているようであった。だが、ここで紺野と彼女が先程の話を続ければ、使用人の女性も困るに決まっている。
 紺野は振り返らずシャワールームの中へと入って行った。

 予想はしていたが、シャワールーム内部も、来客用のそれとは思えないほどに立派であった。
 紺野はぐるりと室内を見渡した。
 紺野家もどちらかといえば裕福な方で、父親のこだわりで広い浴室を備えてはいるが、設楽邸のそれは桁違いであった。来客用のシャワールームでさえこうなのだから、設楽が毎日使用しているバスルームはもっと豪華であるに違いない。
 彼女は、そのバスルームも目にしたことがあるのだろうか?
 設楽に抱かれ、バスタブに張られた湯に浸かる彼女を思い浮かべて、紺野は自己嫌悪に陥った。考えたくないことほど鮮明に頭に思い描いてしまう。これが強迫的な被害恐怖というものであろうか。
 紺野はふうと細長い息を吐き出した。落ち着いた方がいい。自分一人があれこれ考えたって、現実が変わるわけではない。現実をありのまま受け止めるのは、それほど難しいことではないはずだ。今までだって現実を見据えてきたのだから。
 そうして一息ついてジャケットを脱ごうとしたそのときであった。突然室内に電子音が鳴り響いた。紺野の携帯電話の着信音ではないその音に驚き、辺りを見回す。すると、シャワールームの壁に設えてある電話機の上部が赤く点滅しているのが目に入った。
 これが、先程使用人の女性が言っていた「内線」であろう。何か言いそびれたことでもあったのだろうか。紺野は電話機のところまで行き、受話器を持ち上げた。
「はい。えぇと……、男性用シャワールームです」
 何と応答すればいいのか迷った挙句、紺野はとりあえず自分が今いる場所を告げた。と、電話口の向こうからは、聞き慣れた声が返って来た。
『あの……、紺野先輩ですか?わたしです』
 彼女はおずおずと自分の名前を名乗った。
「君!?」
 紺野は吃驚して声を張り上げた。
「一体どうしたの?」
『いえ、その……、わたし、紺野先輩と話したくて』
「話したいって……」
 紺野は言葉を失った。話をしたいからと言って、普通、他所の家の内線電話を利用しようだなんて思いつくだろうか?彼女はこの邸宅に慣れている。その事実を改めて思い知らされた。一見健気に聞こえる彼女の思いも、斜に構えてみるとただの惚気だ。紺野はいい気がしなかった。
「君って……、この屋敷に慣れてるよね」
 ややもすれば弾け散りそうな声を、懸命に押し殺して、紺野は言った。
「私用のために他人の家の内線を使うだなんて、僕なら考えない」
『すみません』
 彼女はおとなしやかに答えた。
『確かに、わたし、設楽先輩のお家に何度か遊びに来たことがあります。このシャワールームを使わせてもらったこともあるし、設楽先輩のピアノルームに入らせてもらったこともあります。内線電話も、何回もお借りしました』
「だから?」
 紺野の声は相手を侮蔑する色を帯びていた。
「言いたいことがあるなら、結論から先に言ってくれないかな。執行部のディベートでもそう教えたよね」
『ごめんなさい』
 だが辛辣な紺野の返答にも折れず、彼女は再び謝った。
『紺野先輩。あの……、わたし、紺野先輩とギクシャクしたくないです』
 今度ははっきりと彼女は「結論」を述べた。
『その、紺野先輩は不愉快だっただろうなって思います。他の人が目の前でくっつき合っているのを見るなんて気持ち悪いですよね。本当にごめんなさい。……でも』
 彼女は一旦深呼吸してから、更に続けて言った。
『わたし、紺野先輩に呆れられたくないんです。紺野先輩は尊敬する先輩だから、変なところを見せたくなかったし、だけど設楽先輩に触れられると頭がぼうっとして、だめって言いきれなくて……。わたしが意志薄弱だから、紺野先輩に嫌な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい』
 彼女は喉につかえた感情を無理やり押し出そうと、掠れた声で言葉を紡いでゆく。
 紺野は額に五本の指を押さえつけた。
 そんな風に謝罪されても、紺野だってどう答えればいいのか分からない。
 「不快だった」という本音であっても「気にしなくていいよ」という表向きの気遣いであっても、紺野の気持ちの全てを表現することはできないだろう。
 自分の中に存在しているどの気持ちを一番初めに彼女に示したなら、紺野は後悔せず、彼女も納得できるか、考える。
 けれどもぐるぐる巡る感情の欠片はどれも歪で、言葉の形を取りそうになかった。彼女への思いで、頭も胸もこんなにもいっぱいなのに、形となるものが何も生まれてこないことに紺野は焦燥感を覚えた。
 今更だが、聞いておけばよかった。「僕と設楽のどっちが好き?」と。あのときその質問を投げかけていたら、どんな答えが返ってきても、きっと自分のポジショニングを見失うことはなかった。
『あの……紺野先輩?』
 紺野の反応をうかがうように彼女が囁く。
 胸の中に溜まった煤に、ふっと息を吹きかけたら、それらはきれいに飛び散ってくれるだろうか。今の位置に雁字搦めになっている自らを奮い起こす何かを、紺野は長い間探していたのかもしれない。
「……君、そのシャワールームには何度入った?」
『えっ?』
 明らかに的外れな紺野の返答に、彼女は唖然としたらしい。
『この……シャワールームですか?』
 紺野の意図を探るように彼女はゆっくりと喋った。
『二回……です。今日で……三回目、かな』
「ふぅん。思ったより少ないね」
 突き放すように紺野は言った。
「あぁ、そうか。こっちの離れたシャワールームに来なくても、設楽が使ってるバスルームを使えばいいのか。設楽のバスルームは?何度入ったの?」
『え……、あの……』
 戸惑いがちに言いよどんだ彼女をあざ笑うかのごとく、紺野は声を立てて笑った。
「答えられない?僕に呆れられたくないとか言う割りに、肝心なことは言わないんだ?」
『……三回くらい……、です』
「本当に?」
『ほんとうです』
「意外と少ないね。まぁ、盛り上がって、シャワー浴びる余裕とかないのかな。そのままなし崩しになっちゃうとか」
 紺野は次から次に思ったことを口にした。彼女の心を傷つけているかもしれないとも思ったが、今、この瞬間だけは、鬱屈した思いを自分の胸の内に残したくなかった。
『こ、紺野先輩』
 呆れられて当然のことをしたのに「呆れられたくない」と言った、その報いに、棘のある言葉を並べ立てられ、彼女は困り果てた声を上げた。
『ほ、本当にすみませんでした……。ごめんなさい』
「謝罪はさっき聞いたよ」
 彼女の発言を、紺野はぴしゃりと遮った。
 しかし、「ねぇ、君」と紺野は彼女の名前を呼ぶと、一転して猫なで声で彼女に尋ねた。
「君、こっちのシャワールームには来たことがある?」
『えっ?こっちのって?ここのシャワールームのことですか?』
「そっちじゃなくってこっち。男性用の方」
『男性用の方……ですか?いえ、そちらに行ったことはないです』
「じゃあ、今からこっちに来て」
 今度は強い命令口調で紺野は言い放った。
『え?あ、あの……』
 電話の向こう側にいる彼女はわけがわからず困惑した様子だった。
 けれど、紺野は容赦しない。彼女に考える暇も与えず、まくし立てた。
「待ってるよ。寒いから、なるべく早く来るように」
 生徒会執行部で彼女に指示を出すときと同じように、言うだけ言って、紺野は受話器を置いた。
 彼女はやって来るだろうか?自らの胸に問いかけてみると、頭からすぐに「来る」という答えが返ってきた。
 紺野に敬意を抱く彼女は、紺野の良心を慕って、きっとこちらのシャワールームへやって来る。
 紺野はジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイの結び目を強く引っ張り、ネクタイを緩めた。
 たとえば恋心を抱いている設楽と、尊敬の念を抱いている紺野が、彼女に同じことを求めるとしたら、彼女の中で男二人のポジショニングはもっと明快で分かりやすくなるだろうか?
 そうすれば、設楽と彼女の二人から置いてけぼりになりかけている紺野が、自分の足で進むべき場所を見つけることもできるかもしれない。
 三角形は、点同士の距離が狂えば、成り立たない。
 小学生のときに学んだ数式を思い出して、紺野は静かに息を吐き出した。


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ぼけらっこさんへ
 (2011/4/29 Asa)