くちびる (2)
忍足×女主+跡部(テニスの王子様)
※氷帝学園高等部二年生の設定です

 映画を見て喫茶店に入って、そこで映画の話に花を咲かせて。その後は雑貨や小物を見て回って。買い物で歩き疲れたら、大きな公園の芝生に座り込んでお喋りしして……。
 あんなに憧れていたデートが、軽々と実現していく。夢でも見ているんじゃないかと錯覚しそうになる。今日のデートはほぼ理想どおり、完璧であった。
 ただ一つ、相手が彼氏の忍足ではなく、同じ生徒会に属する跡部であることを除けば。

 映画を見て、お茶をして、そこで解散だろうと思っていたから、跡部に「次はどこに行く?」と聞かれたときには驚いた。
「まだ付き合ってくれるの?……ていうか、今日はテニス部の練習、ないの?」
「お前、俺様を誰だと思ってるんだ?それに、そんなことはお前が気にすることじゃねぇよ」
「……もしかして、気を使ってくれてたりする?」
「アァ?何で俺がお前に気を使う必要があるんだ」
 跡部はそう言って鼻で笑ったけれど、それは照れ隠しと言うか、本心ではないと思う。
「またまた〜。跡部くんは優しいねー」
 やはり、生徒会室のベランダで泣きじゃくっていた姿を見られたのはまずかったかもしれない。彼女としては、生徒会のメンバーに余計な気を使わせるつもりはなかっただけに、跡部の心遣いを申し訳なく思った。

 部屋で履く冬用のルームスリッパを見に雑貨屋へ行って、本屋で雑誌を買って帰るつもりだったと言うと、跡部は不遜な笑みをたたえて「付き合ってやる」と答えた。
「いいの?私、のんびり買い物する派だよ?」
「好きにしろ」
「すごい……。太っ腹だね、生徒会長」
「誰が金まで出すと言った」
「いえ、さすがにそこまでは要求しません。いくら私だって」
 軽口を叩き合うと、笑みが零れた。胸が透くというか、晴れやかな気持ちになった。
 その一方で、彼女は忍足のことを思い浮かべて、空しくなった。
 比べるものではない。分かっている。でも、忍足にもこれくらいの気配りがあったらいいのに、なんて思ってしまった。
 何も、飽きるほど肌を重ね合わせなくたっていいのだ。並んで歩くだけで、彼女は十分に幸せを感じることができる。むしろその方が、体の一部を受け容れるよりもずっと気持ちが寄り添える気がするのに。
 それとも、彼女の方に問題があるのだろうか?
 忍足に対して望むものが多すぎるだとか?好きな人の側にいることに慣れ過ぎて、我儘になっているだとか?
 生徒会長の跡部に求めるハードルは低いから、ちょっとしたことにも感動して、彼氏の忍足に求めるハードルは高いから、ちょっとしたことでも不満に感じてしまうのだろうか?
 跡部を目の前にして忍足のことを考えると、混乱してしまう。今すぐにでもギャーッと泣き叫びたい気持ちになった。
 けれど、泣きそうになってしまうのは、跡部の優しさに、歓喜に震えているからなのだと思うことにする。
 決して、忍足と跡部を比較して、寂しさを感じてしまったからではないと、彼女は自らに言い聞かせた。

 雑貨屋でモコモコの冬仕様のルームブーツを買って、本屋でお目当てのファッション雑誌を買った後も、跡部は彼女の散策に付き合ってくれた。
 二人が赴いた公営の運動場を兼ねた森林公園は、木々の葉が丁度色づき始めたところであった。
 陽が落ちるのが少しずつ早くなってきている。まだ夕方には早いと思う時間なのに、空に黄昏の兆しが見え始めたことに、彼女は確かな季節の移ろいを感じた。
「そういえば、跡部くんって、今、カノジョいないんだっけ?」
「アァ?」
 唐突な質問に跡部は驚いたようだった。怪訝そうに眉を上げた後、「あぁ」と得心したように破顔した。
「お前、俺に惚れたな?」
「ええっ!?ちょっ、なんでそうなるの?」
「そういう質問するってのは、そういうことだろ」
「えぇー?違うよ。あのね、跡部くんは優しいなあと思ったから。今日は結局、一日、私に付き合ってくれたでしょ?で、跡部くんがモテるのも、何だか分かる気がするなあって思ったの。それで」
「アァン?何言ってやがる。俺様がモテるのは至極当然の話だ」
「ええと……、はーい。ですよねー」
 話はぶった切られたものの、跡部の態度が可笑しかったので、彼女はクスクスと笑った。常人には理解しがたいところで自信家な跡部であるが、こうもはっきり断言されると、かえって清々しく思えるから不思議だった。
「ところで」、跡部が口を切った。
「お前、忍足とは仲直りしたのか」
「えっ?」
「喧嘩したきり、その後の報告を受けてねぇぞ」
「あぁ……、そうだったね」
 さっきまで笑っていた口元が引きつるような感じがした。
 彼女は、跡部の視線から口元を隠すように、わざと鼻の下を擦った。
「進展なし、だよ。ぜんっぜん進展なし。あれから話してもいないし、電話やメールもない。逆に……、嫌われちゃったのかもね」
「それはないと思うがな。で?お前の方からは?奴に連絡はしてねぇのか」
「うん。ちょっと……やりきれないっていうか、怒りっていうの?収まらなくて……。もう話しても無駄なんじゃないかな、って気もするんだよね」
「ふぅん」
 跡部はさほど興味なさそうに答えた。
 興味がないのも当たり前だ。感情的に落ち込んでいる人に同情して心配することはあっても、他人の痴話喧嘩に進んで首を突っ込む物好きなんて、そうそういるもんじゃない。
「あー、愚痴っちゃったね。ごめん。気にしないで」
 彼女は肩をすくめた。跡部には、今日一日付き合ってもらった恩がある。その彼まで自分のネガティブな気持ちに巻き込むのは宜しくないと思った。
 しかし当の跡部は、彼女が跡部の受け答えに敏感に反応してしまうことにも、さほど興味がないようであった。
「おい」と声を掛けられ、顔を上げてみると、跡部は意地悪そうに口の両端を持ち上げていた。
「お前が乗り換えたいって言うんなら、相談に乗ってやってもいいぜ」
「へっ?」
 彼女は目を丸く見開いた。聞き間違えたのだろうか。跡部の発言の意味がよく分からなかった。
 跡部は顎をしゃくって、楽しそうに笑った。
「さっき、聞いたじゃねぇか。俺様に女がいるかどうか。答えてやる。今はいねぇな。もしお前が立候補するつもりなら、考えてやってもいい」
「は?」
 彼女はきょとんとした。
 あれっ?今の話、どこから来てどこへ行こうとしてるんだろう?というよりも、話はいつのまにか違う方向へ突き出てしまっている気がした。
「手を挙げるって何が?何を?」
「なんだ?お前、俺と付き合いたいんだろ?」
「ええっ!?だから、それは違うって、さっき……。飛躍しすぎじゃない?どうしてそうなるの?」
「どうしてもこうしても……、これまでの会話を拾っていくと、自然とそうなるだろ」
「そうなっちゃうものなの?え、えぇと……、わたし、そういうつもりでは決して……」
 困惑しきった彼女の上ずった声を聞いて、跡部はついにプッと噴き出した。
「おい、少しは媚びでも売ったらどうなんだ。アァ?お前、真正直に顔に出過ぎだ」
「えっ!……と、いうことは……、あの……」
 彼女は自分の顔が火照っていくのを感じた。
「跡部くん。……騙した?」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねぇよ。俺は、お前が忍足とは付き合っていけないって言うなら、俺が付き合ってやってもいいって言っただけだ。光栄に思え」
「えええ……。ていうか、さっきから、どうしてそんな上から目線なの?生徒会長だから?普通、付き合うって、お願いします、とか言うもんなんじゃないの?」
「アァ?何言ってやがる。お願いはねぇだろ。あえて言うなら、同意か」
「同意かあ……」
「お前らだってそうだったんじゃねぇのか?」
「ええと……、そうだね」
 思えば、忍足も彼女に「付き合わへん?」と随分とライトな口調で申し出たのだった。あれも、同意を求められたのだと言えば、確かにそうだったと言える。
 しかし、あのときも違和感を覚えたっけ。
「うちのガッコのテニス部男子って、皆、こんな感じなの?」
 彼女は背筋を伸ばして、ため息まじりに空を仰いだ。
「付き合わない?とか、すっごく簡単に言えちゃうよね。付き合うって言葉、結構重いイメージなんだけどな。好きだと思う気持ちだけじゃ成り立たないなのかな」
「人それぞれだろ。言ってみて、相手の出方を知りたいってのが、本音じゃねぇのか」
「うん。でもずっと不思議だったんだよ。付き合うって結局どういうことなのかなあって。付き合わない?って聞いてくる人は、一体何を求めてるんだろうって」
「そりゃ、お前、体だろ」
「へっ!?」
 跡部の即答に、彼女は思わず硬直した。気持ちよく伸ばしていた背筋は一気に強張った。
「かっ、からだって……。それ?付き合うってことは、イコールすぐそれなの?」
「早いか遅いかは、それも人それぞれだろうがな。けど、最終目的は一つだと思うぜ」
「いやいや、おかしいでしょ!」
 悪びれもせず淡々と語る跡部に、彼女はきっぱりと言い放った。
「だって、そういうことなら、誰とだってできるじゃない。誰とだってするじゃない。別に特別でも何でもないじゃない。なんか……、違うよ、そんなの」
 うまく話をまとめられなくて、彼女の言葉は尻すぼみになっていった。
 跡部は彼女の言葉を肯定も否定もしなかった。
 ただ、少し驚いたように「お前、珍しいな」と言って瞠目した。
「珍しくなんかないよ」
 彼女は小さな囁き声で答えた。
「普通でしょ?体が目的、って、そうはっきり言われて喜ぶ女の子なんていないと思うけど」
「そっちじゃねぇよ」
「じゃあ、どっちの話?」
「誰とだって、って方だ。体こそ好きな奴と、っていうのが、世に言う一般論なんじゃねぇのか」
「……あぁ、そっちね」
 跡部に指摘されたごもっともな点に気付き、彼女は苦虫を噛み潰したように笑った。
「そうだね。うん、そうだ。普通はそうだよ。確かに。ごめん。ちょっとムキになっちゃった」
 ごく普通の恋をしている女子なら神経質にはならないであろう点に噛み付いた、彼女の胸の内側が、跡部にも少しだけ分かったような気がした。
 跡部は他人の恋愛事情には全く関心がない。だが、彼女が忍足と喧嘩中であるという事情は、この辺りに起因しているのだろうと思った。
 忍足の浮気が原因か、情欲を先行させすぎた付き合いが原因なのか―。いずれにしても、彼女は忍足が好きそうだと思って用意した映画のチケットを渡さず、一人で縮こまって泣いていたのだから、理由はなかなか根深いに違いない。
「お前も苦労性だな」
「……それ、呆れてる?それとも気遣ってくれてる?」
「嘲笑ってるんだよ」
「なるほど」
 跡部の返答に、彼女は弱弱しい微笑で返した。
 跡部はやっぱり優しいと思った。
 話が進めば進むほどネガティブに陥りそうな雰囲気を、跡部は特有のオーラで打ち消してくれる。常人には理解できない俺様根性も、慰めとしては十分すぎるほどであった。
 優しい人は好きだ。
 忍足も、一年前―関わり始めた当初は、優しかった。
 そうだ。きっとあの頃は、忍足も今の跡部と同じ、弱り果てていた彼女を気の毒に思い、優しくしてくれたのだ。
 そして今の跡部と同じように、忍足も軽口を叩いたついでに「付き合わへん?」と声を掛けた。
 その根っこを分かっていなかった彼女と関係を始めたものだから、ギクシャクしてしまうのだ。
 二人は、最初から、相手に求めるもののベクトルが違っていた。忍足を「好き」だったのは、彼女だけだった。忍足に合わせていれば苦しくなかったかもしれないものが、彼女にとっては譲れないものだったから、こんなにもギリギリと痛い。
「ひどい、な」
 跡部に返した言葉は、そのまま彼女の胸に突き刺さった。
 酷いのは、跡部の言葉でもなければ、忍足の態度でもない。呆れるくらい、自分自身の勘違いぶりが「ひどい」。できることなら、時間を一年前に巻き戻して、「目を覚ませ!」と自分の頬を引っ叩いてやりたい。
 それでも、何も気付いていなかったあの頃の自分は、同じ過ちを繰り返すだろう。今日という日が来るまで、足掻き続けるだろう。
 だって、彼女は忍足のことが好きだったのだから。
 泣きそうな、くぐもった声で発した彼女の呟きを、自らへの非難と受け取ったのか、跡部は「アイツを相手に選んだのはお前だろうが」と言った。
「うん……。だから、ひどいのは私。馬鹿だなと思って。世界ってものが違いすぎたんだよね。テニス部みたいな華やかな世界の人と私じゃ、住んでるところが違うんだよ」
「アァ?オイ、テニス部で一括りにするな。迷惑だ」
「え?だって跡部くんだって、言ってたでしょ。付き合うことの最終目的は、体だって」
「そこは否定しない。けど、それについてはちゃんと説明しただろうが。その着地が早いか遅いかは人それぞれだってな。俺は……(と言いかけて、跡部はそれ以上言うのをやめた)、……まぁ、俺のことはいいか。だが、少なくとも忍足とは一緒にされたくねぇな」
「なに、それ」
 彼女は声を立てて笑った。
 でも、「付き合うことの最終目的は体」と言い切ってしまう跡部は、それはそれ、そこに辿り着くまでの過程はまた別に存在すると思っているのだろう。
 聞いた瞬間は拒否感情を抱いてしまうその発言も、跡部の話を聞いていると、「付き合うイコールいつかは体を許すよという約束をしただけ」と思えてくるから、悪い気はしない。
『そうだね、きっと跡部くんは、俺様だけど、もっと真摯なんだろうね』
 彼女がそう続けようとしたときだった。
 二人の背後から、「こっちもごめんやわ」と声が掛けられた。
 驚いたのは、急に後ろから声を掛けられたからか、聞き慣れているはずの声が聞こえたからか、その声がいつもよりもひときわ低い声だったからか、あるいはその全てか。
 一瞬のことで、理由を自らに落とし込む時間すらなかったけれど、吃驚した彼女が振り返ると、テニス部のジャージ姿の忍足がそこに立っていた。
「オレも、跡部と一緒くたにされるなんて、気に入らんわ」
 そうやんなぁ?
 忍足は目の色に残酷な光をたたえ、静かに薄笑いを浮かべた。


→続く
愛音さんへ
 (2011/12/6 Asa)