くちびる (1)
忍足×女主+跡部(テニスの王子様)
※氷帝学園高等部二年生の設定です

 11月の空はどこまでも青く澄み渡っていて、ひんやりとした風の中に陽光の温もりがじんわり滲む。
「いい天気」
 冬至の日に向けて高度をじりじり下げてきている太陽を見上げ、彼女は眩そうに目を閉じた。
 約束の時間まで、あと五分程だ。
 普段から、待ち合わせの際には五分前行動を心がけている彼女だったが、今日は十五分も前に待ち合わせの場所に到着してしまった。
 今日は、所謂「彼氏」以外の男の子と待ち合わせしているから、気が急いていたのかもしれない。待ち合わせ場所に着いた今も、なかなか落ち着けないでいる。彼氏と待ち合わせをするときには、彼氏がやって来るまで携帯電話を弄ったり文庫本を読んだりして時間を潰すのだが、そういう気持ちにもなれず、待ち合わせの相手がいつ来てもいいように、きょろきょろと周囲を見回していた。
 そうこうしているうちに、今日の待ち合わせ相手がやって来た。
「待たせたな」
 口ぶりは傲岸不遜そのものだったが、時刻は、丁度待ち合わせ時間の一分前であった。
 跡部は、偉ぶって見えても、実は実直で紳士的だったりする。
 跡部は生徒会長、彼女は生徒会会計と、同じ委員会に属している。一見しただけでは計れない跡部の側面も、同じ委員会に身を置いていれば垣間見ることも多いのだ。
「全然待ってないよ。時間通り、正確。さすがだね」
「俺様が正確なのは当然だ。でも、お前が待ってない、ってのは嘘だな」
「え?なんで?」
「目が左右に動いてた」
 跡部はニッと口角を持ち上げた。
「待ち人がいつ、どこから来るか、そこに立って、目だけで探してた。到着したばかりなら、首から上も同じように動く。あるいはその辺りを歩き回ってるもんだ」
「へえ!」
 彼女は驚嘆した声を上げた。
「すごいね、跡部くん。テニスや生徒会だけじゃなくって、いっそ行動心理学の講座とか開いちゃえば?」
「何だ、お前?それ、褒めてんのか、アァン?」
「褒めてますとも」
 彼女は肩をすくめた。
「ていうか、私が跡部くんのことをけなしたことなんてないでしょ」
「言ってみただけだ。本気で取るな」
 跡部はご満悦の表情を浮かべると、腕時計に目を落した。
 テニスプレイヤーなだけあって、跡部の腕は逞しく、しなやかな筋肉を纏っている。その麗しい曲線を描く手首には、富裕層の子女が通う氷帝学園高等部の生徒でも目を瞠るような、高級そうな腕時計が巻かれていた。
「そろそろ行くか」
 跡部に促され、「うん」と彼の後ろを歩き始めた彼女であったが、頭の中では高級腕時計の金額が気になっていた。
(万円単位じゃ、あれは買えないよね……。十万円単位?いや、もっと?うーん、跡部くんなら百万単位の腕時計をしていてもおかしくないもんなあ)
 そこまで考えて、彼女は、つと跡部ではない、彼氏のことを思い浮かべた。
 奴は、校外では腕時計を身に着けないことが多い。待ち合わせの時間にも、「大体の目安」でやって来る。そんな風なので、時間通りに来ないのもしょっちゅうだ。といっても、それは数分から十分程度のことなので、彼女もさほど目くじらを立てたりしない。
 だが、同じ男の子、しかも同じ氷帝学園テニス部の名プレイヤーと言っても、こんな些細なところで全然異なるものなのだ。
 彼女だって、友人と全く同じ行動を取るなんてことはないので、跡部と彼氏が違うタイプであるからと言って驚きはしない。けれど、「今日はいつものデートじゃないのだ」と改めて感じてしまうのが、ちょっと寂しかった。

 数日前、彼女は彼氏と喧嘩をした。
 高校一年生の秋から付き合い始めて一年が経つが、最近はよく喧嘩をするようになった。
 そもそも本当に「好き」で付き合い始めたのかどうかも疑わしい。
 忍足侑士―彼女の彼氏は、中等部から女子生徒に人気が高く、ガールフレンドがいない時期はないくらい、女の子には不自由していなかった。
 同じテニス部の跡部や宍戸もモテたが、彼らはガールフレンドがいたりいなかったりで、いないならいないで、いない期間を普通に楽しんでいるようであった。
 それに比べて、忍足は女の子に依存しているのではないかと思うときがある。
 とにかく、忍足は頻繁に彼女の体を求めてくるのだ。思うに、それまで周囲に女の子の影が絶えなかったのも、彼が女の子との肉体関係を切らさないようにしていたからだろう。
 彼女は忍足のことが好きだったから、なるべく彼の気持ちに沿うように努めてきたつもりだったが、何事にも限度というものがあった。
 食事あるいはお茶をしたら、後は家でDVD映画を見て、それから体を重ねて―、と、毎回そんなデートだったら、マンネリ感を抱いて当たり前だと思うし、彼女なのかセックスフレンドなのか、自分の存在価値だって分からなくなってしまう。
 だから、付き合い始めて一年の記念日には、久しぶりにデートらしいデートがしたくて、彼女は映画のチケットを用意した。
 オリコンランキングを賑わせるようなハリウッド映画のそれではない。小さい映画館でひっそりと公開されるような、忍足が好きそうなフランスのロマンス映画のチケットだった。
 けれど、彼女がその話を切り出す前に、忍足から、いつものように「週末は家に来い」と言われたのだった。
 しかも理由が最悪だった。
 どこか遊びに行こうよと申し出た彼女に、忍足は「家がいい」と言って引き下がらなかった。彼女の希望で、定期試験の間はデートをしないことになっているのだが、その日から更に数日前に終わったばかりの中間試験の間、忍足はずっと彼女に触らせてもらえなかったから、したくて堪らなかったらしい。
 そこで彼女の堪忍袋の緒が切れた。
『もういい!』
 彼女は忍足に背を向け、そのまま生徒会室に駆け込んだ。
 その日は、定例会議も委員会の作業もない日だった。数人の生徒会メンバーはいるだろうが、ベランダに出れば好きなだけ泣けると思ったのだ。
 予想通り、生徒会室には書類の整理をしていた一年の男子しかいなかったので、彼女は挨拶を済ませると足早にベランダに飛び出し、わんわんと泣いた。
 そりゃ、好きになったのは、自分の方が先だった。
 ただの女たらしだと思っていたけれど、他の氷帝学園の女子生徒のように美人でも華やかでもない、真面目だけが取り得の彼女にも、忍足は優しかったのに―。

 一年前、二人は同じクラスだった。文化祭の準備期間だった。遅々として準備が進まない状況を見かねて、彼女は生徒会の仕事と並行し、クラスの出し物の手配にも手をつけた。
 黙々と作業をする彼女に、一番最初に気付いたのが、忍足だった。
『オレも手伝うたるわ』
 重い荷物を持ってくれたり、高いところにある物を取ってくれたり。最初はその程度の手助けだったが、その内、彼は人員配置などの核の部分を引き受けてくれるようになった。
 忍足は、自分の長所をよく心得ていた。そしてどれだけ彼女が頑張ろうとも、ある一部の分野について、彼ほどには効果を上げられないだろうことも理解していた。
 事実、彼女は裏方の仕事は得意でも、絶対的にリーダーシップに欠けていた。そこをきちんと分かった上で、彼は自分のやるべき仕事をやってくれた。だから彼女は彼のことをすごいと思ったし、その優しさと機転に引かれた。
 一方で、忍足が彼女のどの部分を気に入ったのかは分からない。
 ただ、文化祭が終わり、中間試験が終わった後、彼女はいきなり忍足に呼び出されたのだ。
 そこで、唐突に「オレと付き合わへん?」と言われた。
 恋愛と呼べる恋愛をしたことのなかった彼女は、正直言って面食らった。
『付き合う?付き合うって……、ええと、つまりは何をするの?』
『それをオレに聞くん?自分、意外と大胆やなあ』
『えっ、だって……』
『自分、誰か他に好きな男おるん?』
『え、別に、そういう人は……』
『なら、付き合うだけ付き合うてみぃひん?嫌やと思ったら、振ってくれてええから』
 押し切られるようにして、二人の関係は始まったわけだが、人を引き付ける魅力に長けた忍足のことだ。彼女の気持ちを知っていて、彼女が拒絶しないと分かっていて、彼女に交際を持ちかけたのだ。
 実際、彼女はとても嬉しかった。天にも昇らんほどに、舞い上がった。好意を抱いていた人に、「付き合おう」と言われて嫌だと思う女の子はいない。
 ああ、しかし、あのとき「好きだから付き合いたい」とは言われなかったことに、もっと早く気が付いていれば、一年も経って傷つくなんてことはなかったのかもしれないのに―。
 そうしてぼろぼろと涙を零していたところに、ベランダのドアが開いた。
『……何、やってんだ』
 そこに立っていたのは、跡部だった。
『跡部くん?……どうしてここにいるの?』
『それはこっちが聞きてぇな』
 跡部の背後から、書類整理をしていた一年の男子が、不安そうにベランダを覗き込んだ。
『あ、あの、先輩、大丈夫ですか?俺、先輩が気分でも悪いのかと思って……』
『長太郎から連絡をもらって来てみれば……、気分が悪いと言うよりは、みっともない格好を晒さずに済む場所を探してベランダに飛び出したってところか』
『う……。ご明察』
 彼女は鼻をすすりながら、跡部とその後ろに立っている一年生を見上げた。
『ごめん。もう少し一人でいたいから、今は放っておいてくれる?鍵は私が閉めておくから』
『アァン?お前は馬鹿か?さっさと中に入れ』
『え、でも……』
『そんなところで座り込んで、風邪でも引かれたら俺様が迷惑を被るんだよ。おい、長太郎、紅茶でも入れてやれ』
『あ、はい!畏まりです!』
 長太郎と呼ばれた背の高い一年生が素早くポットの方へ向かった。
 跡部は、たじろいでいた彼女の手首を握った。彼女を立ち上がらせると、背中にもう片方の手を添え、彼女を生徒会室の中へと誘導した。
 一年生の生徒が彼女と跡部にお茶を出したところで、跡部は一年生に部活動へ行くようにと言った。
 出されたティーカップに口をつけて、跡部は話を切り出した。
『で、あんなところで無様に隠れてた理由は何だ』
『いきなり尋問なの?』
『当たり前だ。何があったのかは知らねぇが、生徒会の人間が生徒会室のベランダで大泣きしてた、なんて話が広まったら、俺様が困る』
『……なるほど』
 何とも酷い、傲慢な言い草ではあったが、彼女には分かる、それは建前だ。
 跡部は優しい。彼もまた、頂点に立つ人間としてあるべき姿を心得ている。一年生を生徒会室から出したのも、彼女が気兼ねせずに話せるよう、配慮してくれたのだろう。
『喧嘩か?』
 そして、跡部も、先の一年生も、忍足と同じテニス部であった。二人とも、彼女が忍足と付き合っていることを知っていた。それもあって、彼女のことを心配し、話を聞いてくれようとしているのだと思った。
『……そんなところ』
 喧嘩の詳細については話したくなかったが、嘘をつくのも気が引けた。彼女はのろのろと口を切った。
『映画に誘おうと思ったんだけど、あまり興味なかったみたい』
『映画に興味ない?ハッ、そんなこと、あるわけねぇな。呆れるくらい詳しい奴なのに』
 跡部は素直に驚いたようだった。
『それどころじゃないんだって。好きだろうと思って、チケットを取ったのに……、まぁ、仕方ないよね。友達かお母さんを誘って行くことにするよ』
『なら、俺様が付き合ってやってもいい』
『……は?』
 しれっと答えた跡部の発言を理解するまでに、数秒掛かった。
『ええと……、跡部くん、映画、好きなの?』
『嫌いじゃない。忍足が好きな種類の映画は好んで見ないがな。話を聞いてやった礼だと思って、連れて行け』
 跡部は意地悪そうに笑った。
『はあ』
 つられて、彼女も微苦笑した。
 普通なら、連れて行けなんて言われて、はいそうですかと答えたりはしないのだけれど、今になって思えば、それも跡部なりの思いやりだったのだろう。
 もしかして、忍足と見るためにカップル席を予約したことまで見透かされていたのかもしれない。
 結局、忍足と仲直りをしないまま週末を迎え、彼女は跡部と二人で映画を見に行くことになったのであった。


→続く
愛音さんへ
 (2011/11/27 Asa)